「中絶の権利」、歴史的敗退
2022年6月24日、アメリカ連邦最高裁は人工妊娠中絶の権利を認めた1973年の歴史的な「ロー対ウェイド判決」(註1)を覆した。これを受けて、保守が強いアーカンソー、アイダホ、ケンタッキー、ルイジアナ、ミシシッピ、ミズーリ、ノースダコタ、オクラホマ、サウスダコタ、テネシー、テキサス、ユタ、ワイオミングの13州で人工妊娠中絶が禁止になる「トリガー法」が施行された。「トリガー」とは「引き金」の意味で、「トリガー法」は「主要な条件・環境が変わった時に自動的に成立する法」のことである。この他にも、アラバマ、アリゾナ、ミシガン、ウエストバージニア、ウィスコンシンの5州には、「ロー対ウェイド判決」以前から中絶を禁止する法律が今も存在しており、憲法で保障されていた中絶の権利が否定された現在、それらが再び効力を発揮する可能性がある。
州によっては「妊婦の生命を守るための中絶なら認める」という例外を設けているものがあるが、ルイジアナ州のトリガー法のように強姦や近親相姦による妊娠での中絶も認めないという厳しい州法もある。ルイジアナ州では中絶を行った医師に対しては1年から10年の懲役刑、妊娠15週以降の場合には最長15年の懲役刑が科されるという。同州では中絶を「殺人」に分類して中絶した女性を「殺人罪」で起訴できる「法案 813」もこの5月に提出されて注目を集めた(一度は可決されたが、修正案により事実上無効となった)。また、テキサス州などでは、中絶手術だけでなく経口中絶薬の郵送も処罰対象に含まれている。これらのトリガー法は州レベルで法廷闘争になっており、現時点でルイジアナ州とユタ州では州の裁判所がトリガー法の施行を阻止しているが、これは一時的なものでしかない。
今後も州法で人工妊娠中絶(制約がある場合もある)が保障される可能性が高いのは、アラスカ、カリフォルニア、コロラド、コネチカット、デラウェア、ワシントンDC(コロンビア特別区)、ハワイ、イリノイ、メイン、メリーランド、マサチューセッツ、ミネソタ、ネバダ、ニューハンプシャー、ニュージャージー、ニューメキシコ、ニューヨーク、オレゴン、ロードアイランド、バーモント、ワシントンの20州+1特別区であり、それらを除く大半の州で中絶が違法になる見込みだ。
この件での論争でよく見落とされがちなのが、現在「妊婦の生命を守るための中絶なら認める」という特例を設けている州であっても、医療の現場でそれを証明するのは容易ではないという点だ。特に中絶処置を行った医療者に懲役刑が科される可能性がある場合にはなおさらだろう。このような状況下では、望む妊娠が医学的な理由で継続できなくなった場合や、稽留(けいりゅう)流産、子宮外妊娠などで危険な状態となった母体を救うために必要不可欠な処置さえできなくなっていく恐れがある。
中絶はどのように厳罰化したのか?
この事態を説明するためにも、アメリカにおける人工妊娠中絶反対運動の歴史をざっと振り返ってみよう。
ジョージタウン大学ウェブサイトに掲載されている論文(註2)によると、アメリカでは初期には胎動が感じられるまでの妊娠中絶は慣習法で合法とされており、胎動後でも軽罪でしかなかった。だが、ニューヨークで人工妊娠中絶手術を施したり、避妊薬や中絶術を新聞などで大々的に宣伝したりする民間療法師のマダム・レステルが有名になり、彼女を模倣する助産分野の民間療法師が現れるようになったのをきっかけに、1830年代から人工妊娠中絶反対運動が強まった。中絶薬を販売した罪でマダム・レステルが最初に逮捕されたのは1839年のことだった。しかし、当時の法律では有罪にすることが困難だったこともあり、ニューヨーク州は1845年に胎動後の妊娠中絶術を、懲役刑を与えられる「故殺罪(manslaughter)」とし、中絶を求める女性も軽罪に処することができる新しい法を成立させた。
この新しい法でも十分ではないと考えて強い中絶反対運動を繰り広げたのは医師たちだ。ホレイショ・ロビンソン・ストラー医師が中心になり、アメリカ医師会(AMA)の協力を得て盛大な中絶反対のキャンペーンを行うようになった。運動の目標は、世論を説得してさらに厳しい法律を成立させることだった。
アメリカの医師による中絶反対運動について「女性の健康を守るためだった」という解釈がある。けれども、話はそう単純ではない。「アメリカ歴史家協会(OAH)」(註3)によると、その頃までは医師も民間療法師も、法的な規制をほとんど受けずに自由に診療をしていたし、専門家としての医師の地位はさほど高くなかった。また、当時のアメリカで医師になれたのは男性だけだったことも忘れてはならない。1847 年にジェネヴァ・メディカル・カレッジ(現在のホバート・アンド・ウィリアム・スミス大学)の男子医学生が投票でエリザベス・ブラックウェルの入学を認めるまで、アメリカでは女性が医師になる道は閉ざされていた。
OAHによれば、医師らの中絶反対運動には、自分たちの地位を向上させ、女性が主流であるライバルの民間療法師を排除したいという動機もあったようだ。そういった人々が「(中絶は)家族の大きさ(つまり子どもの数)を制限するための不健全で不道徳で不適切な方法」と反対を唱え、「女性が教育、自主性、権利を拡大しつつあることを懸念する」世論を利用したのである。女性の中にも中絶は女性の不道徳な性的行動を促すと考える者がおり、避妊の方法として「純潔(禁欲)」が唱えられるようになった。
「ロー対ウェイド判決」(註1)
テキサス州の妊娠中の女性〈ジェーン・ローという仮名を使用〉が、ウェイド地方検事に対して起こした裁判の判決。原告は、母体の生命を保護するために必要な場合を除き、中絶を禁止するというテキサスの州法が、女性の権利を侵害していると訴えた。1973年に下された最高裁判決では、女性が中絶するかどうかを決める権利は、憲法で保障されたプライバシー権の一部であるとし、胎児が子宮の外でも生きられるようになる妊娠後期より前であれば、中絶の権利が認められるとした。この判決により、妊娠初期の中絶は全面的に、中期は限定的ではあるが認められた。
論文(註2)
Kristin Mackert, “To Bear or Not to Bear : Abortion in Victorian America”, 1990(https://repository.library.georgetown.edu/handle/10822/1051350)
「プロライフ(Pro-Life)」(註4)
「Pro(賛成)」+「Life(生命)」の意で、胎児の生命を支持し、中絶に反対する立場のこと。中絶の権利を求める立場は「プロチョイス(Pro- Choice、「女性の選択を支持する」の意)」と呼ばれる。
「アメリカ歴史家協会(OAH)」(註3)
Jennifer L. Holland"Abolishing Abortion: The History of the Pro-Life Movement in America"(https://www.oah.org/tah/issues/2016/november/abolishing-abortion-the-history-of-the-pro-life-movement-in-america/)