『侍女の物語』の世界はすぐそこに
このショッキングな判決で、再び話題になっている本がある。それは1985年に刊行されたマーガレット・アトウッドの「The Handmaid’s Tale」(邦題『侍女の物語』、斎藤英治訳、ハヤカワepi文庫、2001年)である。
この本は、トランプが大統領に就任した2017年にアメリカのアマゾンで最も多く読まれた本になった。Huluでのドラマ化の影響もあるが、トランプ政権下の米国がこの本の架空の国「ギレアデ(Gilead。ドラマ版では「ギレアド」)」のようになる不安が大きくなったからである。ギレアデは、キリスト教原理主義者がクーデターで独裁政権を握った未来のアメリカ合衆国として描かれている。白人至上主義で、徹底した男尊女卑の社会である。国民は男女とも厳しい規則で縛られ、常に監視されている。環境汚染などで女性の出産率が激減しており、子どもが産める女性は貴重な道具として扱われる。中絶はむろん犯罪であり、施した医師は処刑される。不倫や再婚も罪とみなされ、子どもを産む可能性がある女性の場合には「親として道徳的に適性を欠く」として再教育され、子どもを産むための「Handmaid(侍女)」として、妻が子どもを産めないでいる男性司令官にあてがわれる。
2016年大統領選挙の予備選の時、バーニー・サンダースを支持する若い女性が「ヒラリー・クリントンが大統領になっても、ドナルド・トランプが大統領になっても同じ」、「私はP****(女性器の呼称)で投票しない(自分が女性だからというだけで女性候補に投票しない)」といったことを誇らしげに語るのを何度か耳にした。「ロー対ウェイド判決」をリアルタイムで体験していなかった若者にとっては、女性の権利が剥奪される「The Handmaid’s Tale」は「ありえない架空の世界」だったのだ。ところが、トランプ政権になってすぐにアメリカの雰囲気は変わった。そして、たった4年間で超保守の判事が3人も任命されて最高裁は6対3で大幅に保守に傾き、こうして「ロー対ウェイド判決」が覆された。ギレアデはもはや「ありえない架空のディストピア」ではない。
「ロー対ウェイド判決」を覆す判断に引き続き、テキサス州の小学校銃乱射事件(5月24日)で21人が殺された直後にもかかわらず、最高裁は6月23日、銃携帯の権利を広げる判断を下した。次に、気候変動と戦っている環境保護局の権限を制限する判断も下した。近い将来には「同性結婚」と「避妊」が規制のターゲットになるとみられている。
アメリカのほんとうの力は?
だが、この深刻な事態は、のんびりしていたリベラルの投票者をようやく目覚めさせてくれる「警鐘」となった。
NPO団体カイザー・ファミリー財団(KFF)の2020年の世論調査によると、アメリカ国民の79%が「人工妊娠中絶は、当事者の女性と医師によって決断されるべき」という意見だった。他の世論調査でも同様の結果だったので、多くの人々は最高裁が「ロー対ウェイド判決」を覆すまでは「そんなことはありえない」と気楽にかまえていたのだ。そういった人々がようやく「他の権利も奪われるかもしれない」と怯えはじめた。逆に、宗教右派の保守は、大幅に保守寄りになった最高裁に安堵していることだろう。しばらくは何もしなくても、6人の最高裁判事が長年の夢をどんどん叶えてくれると楽観視する人も少なくないだろう。
今年の11月に行われる中間選挙には、これらの心理が大きな影響を与えることだろう。判決前には民主党が大幅に議席を失うことを予想する者が大半だったが、民主党とリベラル寄りの有権者が戦うモチベーションと情熱を得たことで見通しは変わってきた。ミシェル・オバマ元大統領夫人、サセックス公爵夫人メーガン妃、シンディ・ローパー、ピンク、ビリー・アイリッシュなど数え切れないほど多くの著名人が抗議の声明を出しており、デモで逮捕された女優もいる。社会正義を尊重するイメージを重視する企業はすでに女性の選ぶ権利を支持する姿勢を見せているが、沈黙を守っている企業も少なくない。そんな企業も、優秀な社員を失わないためには、州の法を守りつつも女性の権利を守るという難しいバランスを取らねばならない時が来るだろう。
最高裁のこの判決は大学進学にも大きな影響を与えている。例えば、音楽などのアート教育で有名なオーバリン大学は全米でもトップクラスのリベラルアーツカレッジであり、思想的にも非常にリベラルであることでも知られる。しかし、人工妊娠中絶が違法になったオハイオ州にあるために、せっかく合格したのに進学を取りやめる学生が出てきて話題になった。「人工妊娠中絶が違法の州の大学には進学しない」「人工妊娠中絶が違法の州の企業には就職しない」という意見がソーシャルメディアにあふれているが、この動きは止まらないだろう。就職と大学進学の問題は大きい。これが今後、政治家への献金の方向性にも影響を与えることだろう。
「ロー対ウェイド判決」(註1)
テキサス州の妊娠中の女性〈ジェーン・ローという仮名を使用〉が、ウェイド地方検事に対して起こした裁判の判決。原告は、母体の生命を保護するために必要な場合を除き、中絶を禁止するというテキサスの州法が、女性の権利を侵害していると訴えた。1973年に下された最高裁判決では、女性が中絶するかどうかを決める権利は、憲法で保障されたプライバシー権の一部であるとし、胎児が子宮の外でも生きられるようになる妊娠後期より前であれば、中絶の権利が認められるとした。この判決により、妊娠初期の中絶は全面的に、中期は限定的ではあるが認められた。
論文(註2)
Kristin Mackert, “To Bear or Not to Bear : Abortion in Victorian America”, 1990(https://repository.library.georgetown.edu/handle/10822/1051350)
「プロライフ(Pro-Life)」(註4)
「Pro(賛成)」+「Life(生命)」の意で、胎児の生命を支持し、中絶に反対する立場のこと。中絶の権利を求める立場は「プロチョイス(Pro- Choice、「女性の選択を支持する」の意)」と呼ばれる。
「アメリカ歴史家協会(OAH)」(註3)
Jennifer L. Holland"Abolishing Abortion: The History of the Pro-Life Movement in America"(https://www.oah.org/tah/issues/2016/november/abolishing-abortion-the-history-of-the-pro-life-movement-in-america/)