2023年2月17日は、コソボ独立15周年という節目の日。しかし、ロシアによるウクライナ侵攻開始から1年というニュースにかき消され、コソボにまつわる報道は皆無でした。
ユーゴスラビア(ユーゴ)紛争の終結から20年以上。紛争があったことなど世界から忘れられかけている旧ユーゴ諸国ですが、そこに住む人々は紛争の爪痕に今も苦しんでいます。民族間の分断。酷烈な迫害と殺戮。目まぐるしく入れ替わる加害者と被害者。怨恨と憎悪、報復の連鎖。NATO(北大西洋条約機構)が降らせた空爆の雨。公平とは言えない国際戦犯法廷。これらは未だに尾を引いて、紛争後の民族間融和を難しくしています。
旧ユーゴを長く取材し続け、2023年1月に『コソボ 苦闘する親米国家 ユーゴサッカー最後の代表チームと臓器密売の現場を追う』(以下『コソボ 苦闘する親米国家』)を刊行した木村元彦さんと、ユーゴ紛争における最大の悲劇「スレブレニツァの虐殺」を研究者する長有紀枝さんに、紛争がもたらした災禍と、紛争終結後の旧ユーゴについて語っていただきました。
紛争後の旧ユーゴは本当に「平和」になったのか?
木村元彦(木村) ユーゴスラビア紛争(ユーゴ紛争)が「終結」して、もう四半世紀近くになります。なぜ今になって『コソボ 苦闘する親米国家』を刊行したのかというと、自分が見てきた紛争後の旧ユーゴの姿を伝えなくてはという思いがあるからです。銃弾が飛びかい、爆弾が降り注ぐといった紛争は確かに終結したかもしれないけれど、現地にたびたび足を運んで取材してきた限り、民族間の対立がまったく解消されていない。それどころか、悪化している感さえあります。
にもかかわらず、国際社会はそういった問題に少しも注目していません。ユーゴ紛争の一つであるボスニア紛争は95年の和平合意後、コソボ紛争は99年のNATO空爆以降、平和になったと言われていますが、実態は民族の分断が決定的になっただけで、これを果たして平和と言って良いのか。
長有紀枝(長) ボスニア・ヘルツェゴビナ(以下ボスニア)でもコソボでも、国際社会は戦争終結だけを目標に据え、根本的な民族間融和を含め、ほかのことを全て先送りにしてしまいました。その余波がずっと残っていて、暴力の紛争に代わって、言説の上でなど、形を変えた紛争が続いているように思います。
木村 旧ユーゴに関する報道も、紛争中とその後ではずいぶん違います。
89年にセルビアのミロシェビッチ大統領(当時)がコソボの自治権を剥奪してから空爆までの10年間、コソボではアルバニア系住民への迫害・弾圧がかなり発生しました。
ここから欧米の連絡調整グループが仲介に入るのですが、NATOは、セルビア側が受け入れがたい条件、ユーゴ全土におけるNATO軍基地の駐留と軍事活動の容認を突きつけ、セルビアが応じないとクラスター爆弾や劣化ウラン弾をばらまきました。空爆の結果、セルビアは心情的な「聖地」といえるコソボを失い、コソボにいたセルビア人は迫害される側になります。大多数のセルビア人は住居を追われて難民化し、コソボに残ったわずかな人は、周囲のアルバニア人に怯えながら集住地域で暮らすようになり、その状況は今も続きます。しかし、空爆後のそういった状況はまったく報じられていません。
長 コソボにおけるセルビア人の苦難を象徴する事件が、『コソボ 苦闘する親米国家』で大きく取り上げていた「黄色い家」事件ですね。
ユーゴスラビア(ユーゴ)紛争
註:ユーゴスラビア社会主義連邦共和国(旧ユーゴ)が解体する過程で起こった紛争。スロベニア紛争(91年)、クロアチア紛争(91~95)、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争(92~95)、コソボ紛争(98~99)、マケドニア紛争(2001)の総称。旧ユーゴは紛争を経てスロベニア(91年独立)、マケドニア(同)、クロアチア(同)、ボスニア・ヘルツェゴビナ(92)、モンテネグロ(06)、セルビア(同)、コソボ(08)に分かれた。
「スレブレニツァの虐殺」
1995年7月、ボスニア・ヘルツェゴビナ東部の都市スレブレニツァで、セルビア人共和国軍が多数のボスニア人を殺害した事件。犠牲者数は、戦闘の犠牲者含め7000~8000人にのぼると言われる。スレブレニツァは両軍の武装解除を前提とした国連の「安全地帯」に指定されていたが、ムラジッチ将軍が指揮するセルビア軍が侵攻し占領。住民のうち、主に女性、子ども、高齢者は国連軍基地に避難し、男性はボスニア支配地域を目指してスレブレニツァを脱出した。セルビア軍は避難民をボスニア支配地域に追放するにあたり移送を引き受けたが、この時、避難民の中から男性を隔離し、後に殺害する。また、セルビア軍はスレブレニツァを脱出した兵士を含む男性たちを追撃して交戦。投降してきた者や捕獲した者も数日のうちに殺害した。ムラジッチは95年にICTY(旧ユーゴスラビア国際刑事裁判所)に起訴され、指名手配の末2011年に逮捕された。17年11月第一審で終身刑、ICTY閉廷後その機能を引き継いだ国連の「国際刑事法廷残余メカニズム」(IRMCT)の上訴審で21年6月に終身刑が確定した。
ボスニア紛争
註:ユーゴスラビア紛争の一つ。1992年、ボスニア・ヘルツェゴビナ共和国がユーゴスラビア連邦からの独立を宣言し、これをアメリカなどが承認したことから、ボスニアとユーゴスラビアの軍事衝突に、次いで、ムスリム人、セルビア人、クロアチア人3民族による三つ巴の紛争に発展した。95年にデイトン和平合意によって終結。
コソボ紛争
註:ユーゴスラビア紛争の一つ。1980年代以降、セルビア領内のコソボ・メトヒヤ自治州の自治権を巡り、セルビアとコソボの間には長い確執があった。98年、セルビアがコソボの武装勢力であるKLA(コソボ解放軍)の掃討作戦を開始したことで紛争が開始。99年2月、停戦協議が決裂した後、NATOが国連安保理決議を経ずにセルビア全土を空爆する。3カ月の空爆後、同年6月に停戦合意が成立した。コソボは2008年に独立を宣言したが、セルビアはこれを承認していない。
ICTY(旧ユーゴスラビア国際刑事裁判所)
註:旧ユーゴスラビア国際刑事裁判所。国連安保理決議に基づき、1993年5月、オランダのハーグに設置された。1991年以降の旧ユーゴスラビアにおいて、集団殺害や戦争犯罪など、国際人道法に対する重大な違反に関わった人物を訴追する目的で設立された。161人が訴追され、2017年12月に閉廷。その後は、国連の「国際刑事法廷残余メカニズム」(IRMCT、所在地はハーグ)がその機能を引き継いでいる。
『ハンティング・パーティ』
註:リチャード・ギア主演のサスペンス・アクション映画。ボスニア紛争終結から5年後、2000年のサラエボを舞台に、かつての花形戦場リポーターが戦場カメラマンとともに謎多き戦争犯罪者を追跡する。リチャード・シェパード監督、2007年、アメリカ。
ラチャク村の虐殺
註:コソボ紛争中の1999年1月、コソボの首都プリシュティナの郊外にあるラチャク村で、セルビア軍兵士により、アルバニア系住民40人以上が殺害された事件。