ICTYの成り立ちを顧みる
木村 長さんはICTYを研究していて、こういった不公正を感じることはありましたか?
長 関係者の話を聞いて、何度も感じさせられました。
ユーゴ紛争は本来、「誰が悪い」と単純に断じることはできない紛争です。実際、明石康さん(元国連事務総長)はじめ、紛争当時、現地にいた人の認識は、国連関係者を含め、セルビア人、クロアチア人、ムスリム人三者の戦時暴力について、「量」には圧倒的差異があり、セルビア人の加害行為が一番多かったものの、「質」において差はなかった、というものです。
しかし、ICTYや国連の安全保障理事会(安保理)の認識は違います。それはICTY設立の経緯を振り返ると明らかです。ICTYは、旧ユーゴ領域内で犯された重大なジュネーブ条約違反と他の国際人道法違反に関する「バショウニ報告」を契機に、93年、国連安保理によってオランダのハーグに設置されました。この報告には、セルビア人、クロアチア人、ムスリム人の三者はボスニア紛争でそれぞれに「犯罪行為」を行ったが、国家が主導し政策に基づいて「民族浄化」を実行したのはセルビア人のみである、と書かれています。セルビア人の行為だけ「質」が違うのだという、これが国連安保理およびICTYの認識です。裁判もこれを前提に行われるので、セルビア人とそれ以外では、量刑などの面で公正さを欠くと感じました。
木村 だからセルビア人はICTYを信頼していません。ICTYでセルビア人以外が裁かれた例で言えば、クロアチア人のゴトビナ将軍。彼は、クロアチアから20万人ものセルビア人を追い出し、150人以上を殺害した軍事オペレーションの指揮官です。人道に反する罪で訴追され第一審で24年の懲役刑が科されましたが、控訴審でいきなり無罪になっています。これにはゴトビナ本人も驚いたと言われています。
長 ボスニアのムスリム軍関係者では、スレブレニツァを含む東ボスニア地域を管轄していたオリッチという司令官がいます。彼はボスニア紛争において東ボスニアのセルビア人への迫害や殺害の容疑で訴追されました。2006年の第一審では有罪にはなりましたが、刑期はたった2年。その後2008年の上訴審で無罪が確定しています。どう見ても、犯罪の重大さに比して、量刑がつりあっていません。
ICTYは戦争の全体像を見ていただろうか
長 ICTYの「スレブレニツァの虐殺」に関する一連の裁判のうち、ジェノサイド罪などで終身刑が確定した「トリミル事件」で、裁判官を務めたニャンベ氏というザンビアの女性判事がいます。彼女は、スレブレニツァ事件は戦争中に起きたのだから、戦争の全体像を見て判断しければいけないという理由で、ジェノサイド罪の適用に唯一反対意見を述べました。
ICTYは、自分たちは事実に基づいて歴史をつくっているという言い方をします。ですが、その事実というのは、裁判官が多数の、時に矛盾する証言・証拠の中から、「こっちが本物だよね」と選び取ったものです。それに基づいて歴史=判例をつくり、その上にさらに歴史が積み上がっていく。後からどんな証拠が出てきても、「スレブレニツァで8000人が虐殺された」というのは、もう覆りようのない「歴史」になっています。もっと詳細に調べれば、8000人の中には戦争に巻き込まれて亡くなった人が相当数いて、虐殺の犠牲者はその半数以下かもしれません。しかし、そういう疑問はもう消されてしまいました。
また、ICTYで有罪判決を受けたセルビア人の中には、冤罪の疑いが濃厚なケースもあります。その人は刑期を終えて地元に帰り、自分を陥れた、恐らくは同じセルビア人の真犯人を探していると言います。
木村 国連の名のもとに公正な司法が立ち上がったはずが、その実、安保理常任理事国の意向が強く反映され、反セルビアに偏っているんですね。
長 ICTYは国連安保理決議によってつくられたので、ICTYの所長が報告すべき相手も安保理です。司法機関が政治的組織に従属すること自体が本来はおかしいですよね。
ICTYは、セルビア人を厳しく裁いている限りは国連から何の重圧もかけられませんでした。ただし、アメリカが支援していたKLAの犯罪疑惑には甘かったと言わざるを得ません。デル・ポンテはこのダブルスタンダードを厳しく指弾しています。
映画に潜むバイアス
長 デル・ポンテと言えば、ICTY判事として戦争犯罪人を追跡する姿を記録したドキュメンタリー映画『カルラのリスト』(マルセル・シュプバッハ監督、2006年、スイス)の印象が強いですね。セルビア人を叩く側であるかのように描かれています。
木村 映画ではデル・ポンテがICTYでセルビア人被告を裁いていくところばかり取り上げているので、本人にとっても残念な描かれ方だと思います。
ユーゴスラビア(ユーゴ)紛争
註:ユーゴスラビア社会主義連邦共和国(旧ユーゴ)が解体する過程で起こった紛争。スロベニア紛争(91年)、クロアチア紛争(91~95)、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争(92~95)、コソボ紛争(98~99)、マケドニア紛争(2001)の総称。旧ユーゴは紛争を経てスロベニア(91年独立)、マケドニア(同)、クロアチア(同)、ボスニア・ヘルツェゴビナ(92)、モンテネグロ(06)、セルビア(同)、コソボ(08)に分かれた。
「スレブレニツァの虐殺」
1995年7月、ボスニア・ヘルツェゴビナ東部の都市スレブレニツァで、セルビア人共和国軍が多数のボスニア人を殺害した事件。犠牲者数は、戦闘の犠牲者含め7000~8000人にのぼると言われる。スレブレニツァは両軍の武装解除を前提とした国連の「安全地帯」に指定されていたが、ムラジッチ将軍が指揮するセルビア軍が侵攻し占領。住民のうち、主に女性、子ども、高齢者は国連軍基地に避難し、男性はボスニア支配地域を目指してスレブレニツァを脱出した。セルビア軍は避難民をボスニア支配地域に追放するにあたり移送を引き受けたが、この時、避難民の中から男性を隔離し、後に殺害する。また、セルビア軍はスレブレニツァを脱出した兵士を含む男性たちを追撃して交戦。投降してきた者や捕獲した者も数日のうちに殺害した。ムラジッチは95年にICTY(旧ユーゴスラビア国際刑事裁判所)に起訴され、指名手配の末2011年に逮捕された。17年11月第一審で終身刑、ICTY閉廷後その機能を引き継いだ国連の「国際刑事法廷残余メカニズム」(IRMCT)の上訴審で21年6月に終身刑が確定した。
ボスニア紛争
註:ユーゴスラビア紛争の一つ。1992年、ボスニア・ヘルツェゴビナ共和国がユーゴスラビア連邦からの独立を宣言し、これをアメリカなどが承認したことから、ボスニアとユーゴスラビアの軍事衝突に、次いで、ムスリム人、セルビア人、クロアチア人3民族による三つ巴の紛争に発展した。95年にデイトン和平合意によって終結。
コソボ紛争
註:ユーゴスラビア紛争の一つ。1980年代以降、セルビア領内のコソボ・メトヒヤ自治州の自治権を巡り、セルビアとコソボの間には長い確執があった。98年、セルビアがコソボの武装勢力であるKLA(コソボ解放軍)の掃討作戦を開始したことで紛争が開始。99年2月、停戦協議が決裂した後、NATOが国連安保理決議を経ずにセルビア全土を空爆する。3カ月の空爆後、同年6月に停戦合意が成立した。コソボは2008年に独立を宣言したが、セルビアはこれを承認していない。
ICTY(旧ユーゴスラビア国際刑事裁判所)
註:旧ユーゴスラビア国際刑事裁判所。国連安保理決議に基づき、1993年5月、オランダのハーグに設置された。1991年以降の旧ユーゴスラビアにおいて、集団殺害や戦争犯罪など、国際人道法に対する重大な違反に関わった人物を訴追する目的で設立された。161人が訴追され、2017年12月に閉廷。その後は、国連の「国際刑事法廷残余メカニズム」(IRMCT、所在地はハーグ)がその機能を引き継いでいる。
『ハンティング・パーティ』
註:リチャード・ギア主演のサスペンス・アクション映画。ボスニア紛争終結から5年後、2000年のサラエボを舞台に、かつての花形戦場リポーターが戦場カメラマンとともに謎多き戦争犯罪者を追跡する。リチャード・シェパード監督、2007年、アメリカ。
ラチャク村の虐殺
註:コソボ紛争中の1999年1月、コソボの首都プリシュティナの郊外にあるラチャク村で、セルビア軍兵士により、アルバニア系住民40人以上が殺害された事件。