長 映画の影響力はとても強くて、しかも描かれないことは「なかったこと」になりますから、デル・ポンテがクロアチア人やKLAの訴追も手掛けていたことは広く知られていませんね。
スレブレニツァの虐殺を描いた映画『アイダよ、何処へ?』(ヤスミラ・ジュバニッチ監督、2020年、ボスニア・ヘルツェゴビナほか合作)も同様で、製作側が意図的に言わないことがいっぱいあるんです。でも、ユーゴ紛争の内実を知らずに映画を見た人は、そこに描かれたことが真実だと思ってしまうでしょう。
例えば映画では、冒頭でスレブレニツァのムスリム人の市長がセルビア軍に殺されてしまいます。このため、後々、市民とセルビア軍が交渉する際に、アイダ(映画の主人公。スレブレニツァに住んでいたムスリム人の女性で、国連軍の通訳を務める)の夫を含む民間人が駆り出されることになる、という筋書きです。
スレブレニツァの市長が早々に町からいなくなったのは史実の通りです。でも実はその理由が違う。市長は徒歩でスレブレニツァを脱出した1万数千人の人々の先頭集団にいて、軍人に守られながら逃げて、今でもスイスで実業家として生きています。そうと知らなければ、この映画で初めてスレブレニツァの虐殺に触れるという人は、「かわいそうな市長が残虐なセルビア人に殺された」とインプットされてしまうでしょう。これが「歴史の書き換え」です。
木村 映画の世界も、セルビアを叩いている分にはどこからもクレームを受けないという意味で、ICTYと似ているかもしれません。90年以降、そういう作品が多い印象です。
リチャード・ギアが主演した『ハンティング・パーティ』もそうでした。やはりセルビア人の描き方が一面的すぎて、デモナイゼーション(悪魔化)がひどい。そういうスタンスの映画が基本的には製作・公開されていて、これでは反セルビアのイメージはなかなか薄れません。
利用される「犠牲者意識ナショナリズム」
長 国際社会では反セルビアの印象がいまだに強いのですが、旧ユーゴの中では、互いが互いをデモナイゼーションしています。
紛争を通してそれぞれの民族が憎悪を煽りあった結果、人々のあいだには深い傷跡と、明確な分断が残りました。25年以上が経った今も被害者意識が支配的で、誰が、またはどの民族が最もひどい被害に遭ったかを競うようになっています。人々は直接的な被害者ではなくても被害感情を共有し、一丸となって加害者を非難します。この感情は、紛争を経験していないはずの下の世代にも受け継がれ、若い民族主義者、排外主義者が育ってしまっています。
旧ユーゴ諸国の政治家やメディアは、自国民の強烈な犠牲者としての意識やそれに起因するナショナリズムを放置、または煽動することで、さまざまに利用しています。政権を維持するためであり、戦争で自国民が犯した罪を認めることを防ぐためでもあるでしょう。また、自国の不都合な真実から目をそらすのにも好都合です。これに与(くみ)せずに自民族の不正や犯罪をただそうとする人や、加害側と融和しようと努力する人は、裏切り者として民衆が自発的に非難してくれますから。世界各地で起きているこうした一連の動きを、韓国の林志弦教授(西江大学)は「犠牲者意識ナショナリズム」と名付け、重要な研究をされています。
木村 セルビアで言うなら、やはり国連の承認を得ずに強行されたNATO空爆への被害感情が、民族的な屈辱として全身を支配しています。
ですから、彼らが今、ウクライナ侵攻を目にして、NATOとアメリカへの不信感のあまりロシアにシンパシーを抱いてしまうという心情も、わからないではないんです。ただ、そこだけ切り取って報道されて、「なんだ、セルビアは親ロシアなのか」と誤解されてしまうのは本意ではありません。また、私は『コソボ 苦闘する親米国家』でNATOやアメリカの欺瞞を追及していますが、その論理が切り取られ、ウクライナ侵攻正当化のプロパガンダに利用されるようなことは、やはり断じて許容できません。
長 NATO空爆は、国連安保理の承認を経ていないので、ロシアにとっても寝耳に水でした。NATOとロシアの溝を決定的にしたという点では、現在にまで影響を及ぼしています。
ウクライナ侵攻が始まったころに、ガルージン・在東京ロシア大使(当時)がテレビに出てロシア側の公式な見解を語っていました。彼が、「アメリカだって国連の承認を得ずに軍事行動をとったじゃないか」という例に出すのがNATO空爆です。さまざまな意味であの空爆が残した影響は計り知れないと思います。
木村 あの空爆では中国大使館も「誤爆」されましたし、終結後はロシア軍の戦車部隊がそれまでの後れを取り戻すかのようにプリシュティナの空港を抑えに爆走していたのを覚えています。
ユーゴスラビア(ユーゴ)紛争
註:ユーゴスラビア社会主義連邦共和国(旧ユーゴ)が解体する過程で起こった紛争。スロベニア紛争(91年)、クロアチア紛争(91~95)、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争(92~95)、コソボ紛争(98~99)、マケドニア紛争(2001)の総称。旧ユーゴは紛争を経てスロベニア(91年独立)、マケドニア(同)、クロアチア(同)、ボスニア・ヘルツェゴビナ(92)、モンテネグロ(06)、セルビア(同)、コソボ(08)に分かれた。
「スレブレニツァの虐殺」
1995年7月、ボスニア・ヘルツェゴビナ東部の都市スレブレニツァで、セルビア人共和国軍が多数のボスニア人を殺害した事件。犠牲者数は、戦闘の犠牲者含め7000~8000人にのぼると言われる。スレブレニツァは両軍の武装解除を前提とした国連の「安全地帯」に指定されていたが、ムラジッチ将軍が指揮するセルビア軍が侵攻し占領。住民のうち、主に女性、子ども、高齢者は国連軍基地に避難し、男性はボスニア支配地域を目指してスレブレニツァを脱出した。セルビア軍は避難民をボスニア支配地域に追放するにあたり移送を引き受けたが、この時、避難民の中から男性を隔離し、後に殺害する。また、セルビア軍はスレブレニツァを脱出した兵士を含む男性たちを追撃して交戦。投降してきた者や捕獲した者も数日のうちに殺害した。ムラジッチは95年にICTY(旧ユーゴスラビア国際刑事裁判所)に起訴され、指名手配の末2011年に逮捕された。17年11月第一審で終身刑、ICTY閉廷後その機能を引き継いだ国連の「国際刑事法廷残余メカニズム」(IRMCT)の上訴審で21年6月に終身刑が確定した。
ボスニア紛争
註:ユーゴスラビア紛争の一つ。1992年、ボスニア・ヘルツェゴビナ共和国がユーゴスラビア連邦からの独立を宣言し、これをアメリカなどが承認したことから、ボスニアとユーゴスラビアの軍事衝突に、次いで、ムスリム人、セルビア人、クロアチア人3民族による三つ巴の紛争に発展した。95年にデイトン和平合意によって終結。
コソボ紛争
註:ユーゴスラビア紛争の一つ。1980年代以降、セルビア領内のコソボ・メトヒヤ自治州の自治権を巡り、セルビアとコソボの間には長い確執があった。98年、セルビアがコソボの武装勢力であるKLA(コソボ解放軍)の掃討作戦を開始したことで紛争が開始。99年2月、停戦協議が決裂した後、NATOが国連安保理決議を経ずにセルビア全土を空爆する。3カ月の空爆後、同年6月に停戦合意が成立した。コソボは2008年に独立を宣言したが、セルビアはこれを承認していない。
ICTY(旧ユーゴスラビア国際刑事裁判所)
註:旧ユーゴスラビア国際刑事裁判所。国連安保理決議に基づき、1993年5月、オランダのハーグに設置された。1991年以降の旧ユーゴスラビアにおいて、集団殺害や戦争犯罪など、国際人道法に対する重大な違反に関わった人物を訴追する目的で設立された。161人が訴追され、2017年12月に閉廷。その後は、国連の「国際刑事法廷残余メカニズム」(IRMCT、所在地はハーグ)がその機能を引き継いでいる。
『ハンティング・パーティ』
註:リチャード・ギア主演のサスペンス・アクション映画。ボスニア紛争終結から5年後、2000年のサラエボを舞台に、かつての花形戦場リポーターが戦場カメラマンとともに謎多き戦争犯罪者を追跡する。リチャード・シェパード監督、2007年、アメリカ。
ラチャク村の虐殺
註:コソボ紛争中の1999年1月、コソボの首都プリシュティナの郊外にあるラチャク村で、セルビア軍兵士により、アルバニア系住民40人以上が殺害された事件。