1999年のガザは、笑い声が絶えなかった
「何もできなくて、ごめんなさい。あなたの力になってあげられなくて、ごめんなさい」
3月5日。北村記世実さんは、SNSにそう書き込んだ。その日の朝、ガザに暮らす友人から、イスラエル軍の攻撃で破壊され、瓦礫の山になってしまったという自宅の写真が送られてきていた。「まったく希望がない」と言う友人に、何と言葉をかければいいのか、分からなかった。
2023年10月以来、イスラエルによる苛烈な攻撃にさらされ続けているパレスチナ自治区ガザ。北村さんは10年以上前から、その地で作られる刺繍製品の販売を通じて、現地の女性たちの自立を支援し続けてきた。
初めてガザを訪れたのは、今から四半世紀近く前、1999年のことになる。
「友達がガザで活動する医療系のNGOで働いていた関係で、現地でのボランティア活動に参加したんです。当時はちょうど、ガザの状況が比較的落ち着いていた時期。人や物の出入りもそれほど厳しく制限はされていなくて、イスラエルとの境界にあるエレツ検問所からガザ入りしたのですが、特に足止めされたりすることもなかった。ガザからイスラエル領内に出稼ぎに行っている人たちも多かったし、ノルウェーからの修学旅行生が団体で訪れているという話も聞きました。本当に、今思えばとても穏やかな時期だったんだと思います」
もちろん、だからといって人々の生活が経済的に豊かだったというわけではない。住まいや食事の様子を見ていても、それは分かった。それでも街の雰囲気はどこか明るく、人が集まる場にはいつも笑い声が絶えなかったという。
「みんな、貧しいながらに助け合って生きているというんでしょうか。日本もかつてはこうだったのかな、などと考えました」
滞在中、現地で知り合った友人の家に招かれたことがあった。食べる物も十分にないはずなのに、チキンや野菜をご飯に炊き込んだマクルーバという料理でもてなしてくれた。どこからかお金や食材を工面して、準備してくれたのだろう。
「厳しい暮らしを強いられているのに、どうしてこの人たちはこんなに優しいんだろう、と思いました。そんな経験を重ねるうちに、その温かさや思いやりの深さに、すっかり魅了されてしまったんです」
何ができるの?と問われている気がした
さらに、それから2年後の2001年、北村さんは再びNGOの活動に参加して、ガザを訪れる機会を得る。
ちょうどその前年、のちにイスラエル首相となるリクード党党首のシャロンがエルサレムのイスラム教聖地に立ち入ったことをきっかけに、パレスチナの人々による抵抗運動「第二次インティファーダ」が激しくなっていたときだった。ガザの町も、最初に訪れたときとは大きく様相を変えていたという。
「まず、ガザに入る検問所の時点で、嫌がらせのように長い時間待たされました。やっと許可が出てガザ側に入った後も、後ろから拡声器越しに大声で怒鳴られる。ヘブライ語なので何を言われているかまでは分からないのですが、間違いなく罵りの言葉だと感じました。下手なことをしたら後ろから撃たれるんじゃないかと、緊張しながら歩いたのを覚えています」
街中に入ると、イスラエルによる報復攻撃で、建物が破壊されて瓦礫になってしまっている区画がいくつもあった。頭上にはイスラエルの偵察機が飛び回り、夜になればアパッチヘリが飛んできて攻撃を繰り返す。当時はまだガザの中にあったイスラエル人の入植地からも、時折銃声が聞こえてきた。
さらに衝撃的だったのは、街中の建物の壁や窓など、至るところに若い男性たちの写真が貼ってあったことだ。中にはまだ子どもとしか思えないような、幼い少年の顔も少なくなかった。
「シャヒード(殉教者)といって、インティファーダに参加して亡くなった人たちの写真なんです。インティファーダは『石の蜂起』とも言われますが、そのころもイスラエル兵に投石した男の子たちが撃たれて亡くなるということがしばしば起こっていました。もちろん母親たちは『行くな』と言って止めるんですが、それを振り切って行ってしまう子もやっぱりいて。それほど、みんな追いつめられて、やるせない気持ちを抱えていたんだと思います」
「貧しいながらに穏やか」だった前回の訪問時とは打って変わった、張り詰めた空気。「シャヒード」となった少年たちの写真に見つめられながら、「あなたは私たちのために何ができるの?」と問いかけられているような気がしたと、北村さんは言う。
ビジネスを通じて支援を
帰国後、結婚・出産や育児の時期と重なったこともあり、すぐに動き出すことはできなかったが、ガザのことは心から離れなかった。第二次インティファーダの収束後、イスラエル軍はガザから撤退したものの、外側からガザを封鎖。さらに経済状況は悪化し、軍事攻撃も何度も繰り返されていた。
「あるとき、ガザに住む友人とチャットで話していたら、また近くで空爆があったのか『パソコンを置いてるテーブルが爆音で揺れている』という話になって。『私も(安全な)あなたたちのところに行きたい』と言われたんです。今すぐパソコンの向こうの彼女を助けに行きたいという思いに駆られました」
彼女や、ガザの人たちを少しでも支えるために、自分に何ができるだろう。模索を続ける中で、北村さんはちょうど日本でも注目され始めていた「ソーシャル・ビジネス(社会的企業)」という言葉に出合う。
自分たちの利益のためではなく、社会的課題の解決を第一義とするビジネス。これなら、自分もガザの人たちの助けになれるのではないか。そう考えたときふと思い浮かんだのが、ガザの女性たちが作る美しい刺繍の数々だった。
初めてガザを訪れたときに購入した1枚のストール。色とりどりの糸で施された細かい刺繍に「なんてきれいなんだろう」と感激して買ったものだった。何年も愛用しているけれど、いまだにほつれもなくて質が高い。軍事封鎖によってガザでさらに失業者が増えている中、こうした工芸品を日本で売ることができれば、女性たちの貴重な収入源になるのでは──。そんなアイデアが浮かんだ。