たとえば、朴正煕(パク・チョンヒ)政権時代の1970年に全泰壱(チョン・テイル)という若い労働者が抗議の焼身自殺を行いました。この事件は社会に衝撃を与え、労働問題の深刻さを知らしめました。でも1987年の民主化闘争のあとに引き継いで労働状況の改善を訴えた運動は成果を得られなかった。当時は、民主化の方が喫緊の課題とされていたわけです。労働問題は二の次にされた。そして1997年のアジア通貨危機が起きます。その翌年、国では、ようやく真の意味での政権交代がありました。民主化運動の闘士・金大中(キム・デジュン)が大統領になったのです。しかしアジア通貨危機を乗り越えるため、リストラが横行し雇用が流動化するなど、またもや労働者が切り捨てられた。こうして、社会問題、労働問題の議論は常に後回しにされてしまう構造が続いてきたのです。

韓国の政治は、保守派と進歩派の対立として説明されますが、この場合の「進歩」とは、最低限の民主主義を守り、北朝鮮との緊張を緩和するという立場にすぎません。進歩派と呼ばれている「共に民主党」は、経済的、社会的課題への姿勢で見れば「保守中道」です。保守右派と保守中道派が北朝鮮への態度をめぐって激しく対立する一方で、平等や再分配、労働者の健康や安全といった、日々の暮らしの中で人々が解決を求める問題の解決は進展しない。
朴槿恵退陣を求めた2016年の「ろうそく集会」では、こうした構造そのものへの批判の声が上がっていたと思います。例えば集会に参加したマイノリティの人たちは、包括的差別禁止法の制定を求めていました。彼らは、「もう後回しにされたくない」と叫んでいた。しかし、ろうそく集会を通じて誕生したとも言える文在寅政権ですら、包括的差別禁止法はおろか、格差の改善などの課題にほとんど手を付けることができなかった。またもや「後回し」にされたのです。
平等や再分配を強調すれば「アカ」として忌避され、保守右派と保守中道派が北朝鮮をめぐって熾烈に争うという分断体制のもとでは、社会的な問題の解決がなかなか進まない。徐輔赫(ソ・ボヒョク)という政治学者は、「韓国民主主義の最大値は分断体制が規定する」と表現しました。分断体制が、韓国社会のこれ以上の発展を妨げているのです。
2018年に、文在寅が金正恩と会談したとき、この会談への支持率が90%を超えました。驚異的な数字です。もちろんそれは、朝鮮半島の統一を願う民族心の発露ですが、それだけでなく、分断体制がもたらすこうした八方ふさがりを脱したいという思いもあったのではないかと私は思います。
30年のボーナスタイムと、その終わり
でも韓国は、ただ受け身で分断体制に閉じ込められていたわけではありません。それどころか、この30年間、分断の時代を終わらせるために大変な努力を払ってきました。
1980年代以降の韓国が経済発展と民主化の二兎(にと)を勝ち取って国際社会で評価されるようになると、圧倒的な経済的優位を背景に、韓国は積極的に動きだします。「反共」でも「北進」でもなく、「平和統一」を掲げて、民主化後の改正憲法にそれを目標として書き込みました。冷戦の終結で、アメリカの一極覇権が確立したことも追い風になった。
「平和統一」の働きかけは、1980年代末以降の盧泰愚(ノ・テウ)の「北方外交」に始まり、金大中の「太陽政策」、盧武鉉の「平和繁栄政策」と続きました。
朝鮮半島の分断構造は、南北だけで完結しているものではなくて、朝鮮戦争と冷戦時代から引き続く大国主導の枠組みに組み込まれています。1920年代、30年代生まれの指導者たちは、気骨をもってそれに挑みました。90年代に一貫して南北交渉を担った元軍人の林東源(イム・ドンウォン)は、クリントンに「1905年にアメリカは日本との間で桂タフト協定を結んで日本の韓国支配を認めた。その借りを返してもらいたい」と、タンカを切ってみせたそうです。韓国人としての意地を見せた。
38度線上の共同管理区域で、南北の兵士がひそかに友情をはぐくむという映画『JSA』が公開されたのが2000年です。あの年には金大中と金正日による、史上初の南北首脳会談があった。それから2005年ぐらいまでは、南北関係が最も良好な時期でした。2005年には民間航空機が毎日、平壌とソウルを結んで飛んでいた。今じゃ考えられないでしょう。
だけど、こうした30年間の努力は、最終的に「限界」にたどり着いたと、私は見ています。
