ここから、生活保護利用者に対する敵対的な意識が生み出される。働いている人々の目には、生活保護を利用している人たちはあたかも「恵まれている」かのように映るのである。働いて生活を成り立たせるべきだという労働倫理の強い日本では、生活保護を利用することが倫理にもとる「不正行為」とみなされ、「多少の権利の抑制は仕方がない」と考えられることになる。
残念なことに、ケースワーカーの多くもこうした意識を内面化しており、「不正を取り締まる」ことこそが「正義」であると考え業務にあたっている。その結果、上述したような違法行為や人権侵害へと結びついていくのだ。それが社会的コストの増大、人命の喪失へと帰結してしまうことはすでに述べた。
「普通」に暮らせる社会へ
貧困に陥ったとたん、様々な権利を制限され、ときには生そのものが否定されてしまう。日本社会では、生存権がいまだに確立しているとはいえない。しかしながら、貧困は社会的に生み出されるものであり、誰もが何かのきっかけで貧困に陥るリスクを抱えている。生活保護利用者に向けられている違法行為や人権侵害の矛先が、いつのまにか自分に向いているということは十分にありうることなのだ。誰かの権利の制限は、自分自身の権利の制限につながる可能性がある。
しかし、「働けない者」の貧困の悲惨さだけを訴えても、「働ける者」の過酷さが広がるいまでは、共感を呼ぶどころか、反発の方が強まってしまうだろう。ワーキングプアを生み出す労働市場のあり方を変えることなしに、「普通」に暮らせる福祉社会を実現することはできない。働くことによって(最低ではなく)最低限度の生活が成り立つようにしていかなければならない。具体的には、最低賃金の引き上げや長時間労働の規制が重要になるだろう。
いずれにせよ、生存権が書き込まれた憲法25条の条文を守ることではなく、この現状を変えるための「不断の努力」こそが、生存権を確立していくうえで求められているのである。