被害者が非難される違和感
今年に入り、首都圏では、痴漢とされた男性がホームから線路に逃げるといった事例が続き、話題になりました。通勤・通学時、満員電車を利用する女性で痴漢に遭ったことのない人はごく少数でしょう。男性が被害者のケースもありますが、痴漢の被害者は圧倒的に女性が多いです。そして被害者であるにもかかわらず、服装や化粧が派手だったり、露出度が高めの服装だったりした場合、女性側にも非があると言う人たちがいます。痴漢はまぎれもない性暴力なのに、「自分にもスキがあったのかもしれない」と諦めている女性もいます。更に強姦などのケースでも、被害に遭った側の落ち度を責める発言を度々耳にします。
これが空き巣やひったくりなど別の犯罪だったらどうでしょう? 鍵を掛け忘れた、車道側にバッグを持っていたなど、被害者側に多少の落ち度があったとしても、悪いのは犯罪者のほうであることは火を見るより明らかです。それなのに性犯罪の場合には「女性側にも非がある」と言われることに対して、違和感を覚えませんか?
そう感じる人には、フェミニズムについて考えることが、なぜ違和感を覚えるのかを知る手がかりになるはずです。
フェミニズム運動の歴史
アメリカでは、女性の参政権を求める声が上がり権利を勝ち取るまでの、1860年代から1920年までがフェミニズム運動の「第1波」と呼ばれています。その後、1960年代後半からの「第2波フェミニズム」では、制度的な権利獲得よりも女性解放に焦点が移り、性の抑圧体制への問題提起、個人的な問題もまた政治的権力関係に起因することを問題化していきます。いわゆるウーマンリブ運動の時代で、「個人的なことは政治的なこと」というスローガンが生まれました。
男性の価値観による美の基準を押し付けられてきたことに反発し、女性というセクシュアリティーから脱しようということで、ブラジャーを脱ぎ捨てたり、メイクをしなかったりという直接行動が目をひきました。アートや文学の世界でもフェミニズムに対する関心が高まっていきました。
続く「第3波」は1990年代以降となります。後述する日本での「ジェンダー・バックラッシュ(backlash:反動・反発・反撃)」と同様のことが起こり、フェミニズム運動の意味が歪められ、周辺化していく事態への対抗運動を指しています。
日本では、フェミニズムやフェミニストという言葉を否定的に受け止める人が多いかもしれませんが、これは日本だけに限った現象ではありません。国連組織UNウィメン親善大使をつとめるイギリスの俳優エマ・ワトソンも、2014年9月20日に国連本部で開催された「He For She」キャンペーン発表会で行ったスピーチで、この点を指摘しています。
このスピーチを国連広報センターが日本語字幕付きでYouTubeにアップしています。彼女の言葉から、英語圏でのフェミニズムやフェミニストを取り巻く状況が伝わってきます。
https://www.youtube.com/watch?v=jQbpLVI6DwE
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戦後、女性代議士が39人誕生
ここで、日本の歴史についても触れておきましょう。日本とアメリカではフェミニズムの波が同時期に起きたわけではありません。それでも、アメリカの第1波と似たような権利獲得運動としては、大正デモクラシー時代以降に女性の政治参加を制限した治安警察法第5条改正を求める運動や、参政権を求める婦選運動がありました。
第二次世界大戦敗戦後、GHQ(連合国最高司令官総司令部)からの指令を反映し女性参政権が実現します。1946年4月10日に大日本帝国憲法の下、第22回衆議院議員総選挙が男女普通選挙制度で行われ、結果39人もの女性代議士が誕生しました。しかし、翌年の衆議院議員総選挙では選挙制度が変更されたこともあり、女性議員数は15人と激減します。39議席という数を超えるには、59年後の2005年を待たねばなりませんでした。
フェミニズム運動において女性への暴力は常に大きなテーマで、戦前には公娼制度の廃止を求める廃娼運動があり、戦後の売春禁止法に繋がりました。2017年に改正され話題になった強姦罪は1907年つまり明治40年に施行されたもので、法定刑の下限が懲役3年と強盗罪の5年よりも軽かったのです。今回の改正で5年に引き上げられましたが、長い間改正されなかったのは、意思決定機関である国会に女性議員が少ないことと関係しているでしょう。
声を上げることの大切さ
日本にはかつて姦通罪、いわゆる不倫の中でも有夫の女性のみが処罰の対象になるという男女で規定が異なる罪がありました。1947年には廃止されたものの、女性に対する性規範は依然厳しく、日本では、特に第2波の運動ではそうした性規範からの解放もフェミニズムのテーマになっていきます。72年、妊娠中絶に関わる優生保護法に対し日本政府は、より中絶しにくくする改定案を提出しました。女性の「産まない権利」を?奪するこの案の阻止のため優生保護法改悪阻止運動が盛り上がります。活動団体の中でも「中ピ連(中絶禁止法に反対しピル解禁を要求する女性解放連合)」は目立つ存在でした。その名の通り、薬事法で経口避妊薬(ピル)が規制されていたことにも異を唱えていました。
中ピ連は、ピンクのヘルメットをかぶり、当時流行の最先端だったミニスカートをはき、産児制限を考える討論会や日本産婦人科学会等に抗議に押しかけるなど、派手な行動がメディアでクローズアップされました。確かに目立つ面はありましたが、学生運動の時代でしたからヘルメットをかぶるというスタイルは普通にあったわけです。それをメディアが「過激な」行動や発言をからかう形で取り上げ、フェミニズムの否定的なイメージが作られてしまいました。
女性たちに発言させないための攻撃には様々な方法がありますが、からかいの対象にしてまともに相手をしないというのは、効果的な攻撃方法です。フェミニストを嘲笑(ちょうしょう)するのも、攻撃の一形態です。なぜこのように攻撃されたのかといえば、世間の固定観念に鋭く切り込んだからでしょう。
制度化が進んだ日本の第3波時代
1980年代になると国連の動きに呼応して国内法の整備が進んでいきます。79年に、女性差別撤廃条約が締結され、日本は85年に批准しました。条約を批准するにあたり、男女差別禁止法を制度化する必要性があり、日本は、男女雇用機会均等法を作る(施行は86年)ことで対応しました。99年には、男女共同参画社会基本法も施行され、制度が充実していきます。2001年には、DV防止法(配偶者からの暴力の防止及び被害者の保護等に関する法律)も制定されます。
この2000年代初頭までを、日本での第3波と言ってもいいのではないかと思います。草の根運動だけではなく、行政もまた積極的にジェンダー平等を進めていったのです。