「ゲノム編集」という言葉を聞いてもピンと来ない人がいるかもしれないが、「遺伝子組み換え」食品に不安を感じている人は少なくないはずだ。ゲノム編集は、遺伝子組み換えの技術よりも、大胆かつ速く、そして低コストで、植物や動物の遺伝子を操作(改変)する技術である。この技術の可能性に期待しつつも、自著『ゲノム編集を問う』(岩波新書)で、ゲノム編集の不適切な提供や乱用、整わない法整備やルールなどに警鐘を鳴らすのは、北海道大学の石井哲也教授だ。そんな石井教授が、ゲノム編集の技術特性、医療開発の現状と課題、さらには、今後留意すべき点などについて提言する。
食品と医療で異なる遺伝子改変のイメージ
少し前になるが、田中豊大阪学院大学教授が2007年報告した日本版総合的社会調査では回答者2023人のうち、約6割の人が「遺伝子組み換え食品を食べたいと思わない」と回答した。
これまでの遺伝子組み換え作物は、ある植物の細胞に他種の植物や微生物の遺伝子を組み込むことが多かった。通常の交配では生じえない遺伝的“不自然さ”が、人々の懸念を生んだ原因の一つといわれる。そうした背景もあり、スーパーなどで「遺伝子組み換えではありません」という表示をよく見かける。一方、遺伝子組み換え技術を使った遺伝子治療については、多くの人々は概して好意的に見ているようだ。例えば、「2009年筋ジストロフィー遺伝子治療希望者の意識調査」では家族、本人とも7割以上が治療を受けたいと回答した。
なぜ人は、ときに遺伝子操作を忌み嫌い、別の局面では受け入れるのか。その理由には、遺伝子治療の場合は他種の遺伝子ではなく、同じヒト由来の正常型遺伝子を組み込んでいることが挙げられる。しかし、受容に転じる理由は本当にそれだけだろうか。
一方で、近年、ゲノム編集という新しい遺伝子改変技術が登場し、育種など農業への応用のみならず、医療への応用にも大きな注目と期待が集まっている。同時に、将来の社会が大きく変容しかねないという懸念の声も上がっている。ゲノム編集に関しての注目度の高さは、2017年10月、世界アンチ・ドーピング機構(WADA)がドーピング禁止の対象に加えたことでもわかる。
新しい遺伝子改変技術「ゲノム編集」
ゲノムとは、生物の設計図ともいえるものである。例えば、人間のヒトゲノムには約2万2000種類の遺伝子があり、おのおのがDNAの塩基配列という形で記述され、この図面に従って、様々な機能を持つ酵素などのたんぱく質が作られる。
この塩基配列が変化すると、生物の性質に影響することがある。ヒトゲノムを比較すると、個人個人で約0.1%の違いがあり、これが個性をもたらしている。極端な例になるが、筋ジストロフィーやアルビノといった遺伝子疾患は重要な遺伝子でこの配列が変化(変異)した結果、たんぱく質が機能しない、あるいは機能が変化することで発症する。
従来の遺伝子組み換え技術は、主に細胞の外でDNAを切断あるいは結合させる酵素を使い、必要とされる遺伝子を含むDNA構築物を作り、それを細胞に導入してきた。この方法では、遺伝子がゲノムに組み込まれるか否かは運任せであり、特にゲノムの特定部位へ狙い通り組み込むのを成功させるには、数年単位で試行錯誤を要することもあった。
そこに、DNA切断酵素を直接細胞に導入するというコロンブスの卵のような発想の転換から「ゲノム編集」という技術が生まれ、ブレイクスルーが起こった。
具体的には、まずナビ機能のあるガイド分子をDNA切断酵素に結合させる。ガイド分子によって酵素が細胞内にあるゲノムDNAに到達し、設定したDNA配列を探して結合、切断する。切断場所に新しく遺伝子を組み込めるほか、標的遺伝子に意図的に変異を入れる「遺伝子破壊」や、逆に標的遺伝子の変異している配列を正常な配列に書き換える「変異の修復」なども可能となったことで、遺伝子組み換えよりも遺伝子改変の自在性が大きく拡大した。
この自在性を「編集」と呼び、ゲノム編集と称されるようになった。自在性に加えてゲノム編集での遺伝子破壊は遺伝子組み込みより概して効率が高く、2400倍に向上したというデータもある。
ゲノム編集は次の三世代に大別される。
第一世代のZFNや第二世代のTALEN(タレン)はガイド分子とDNA切断酵素が一体式だったが、第三世代のCRISPR/Cas9(クリスパー・キャス9)は別体式構造を採用し、ガイド分子だけを作製すればよくなった。さらに、ゲノム編集はいくつかの遺伝子を同時に改変する「多重編集」ができるが、CRISPR/Cas9の場合、複数のガイド分子を細胞へ同時に導入すれば容易に多重編集できる。数年かけても不可能だった高等な動植物での多重編集を数カ月でできるようにしたなど利便性の高いCRISPR/Cas9は、瞬く間に世界中に広まり、ゲノム編集はノーベル賞候補とも称賛されている。
遺伝子治療の現状
遺伝子治療の臨床試験は、遺伝子組み換えとゲノム編集を使うものを併せて、これまで、少なくとも2597例実施されてきた(2017年12月現在)。ところが各国の規制当局から承認され、販売されている遺伝子治療製品は10しかない。承認製剤のうち、6はがん治療を目的としたもので、その他は遺伝子疾患(重篤な視力障害、免疫不全症と脂質代謝異常症)が3、末梢血管病が1だ。承認国の内訳は中国、フィリピン、ロシア、EU、アメリカで、日本ではまだ承認例はない。
現在進行中のゲノム編集を用いた臨床試験は約20例(一部はすでに終了)ある。ゲノム編集の登場で遺伝子を改変する治療法の開発に拍車がかかるだろう。
ゲノム編集治療については、特にアメリカの開発状況や中国の開発状況には目をみはるものがある。
こうしたゲノム編集治療法のうち、体外で細胞の遺伝子を改変して体内に移植する治療法は「生体外ゲノム編集治療」、人工DNA切断酵素を直接体内に注入する治療法は「生体内ゲノム編集治療」と呼ばれている。
ZFN
ジンクフィンガーヌクレアーゼ。設定DNA配列に結合するようにジンクフィンガーたんぱく質を改造し、ヌクレアーゼというDNA切断酵素に結合させた構造をとり、1996年頃に初めて有用性が報告された。
TALEN
植物病原菌由来のDNA結合たんぱく質をヌクレアーゼに結合させたもので、2010年に有用性が報告された。ZFNより誤認識が少なくなり、人工DNA切断酵素作成の試行錯誤が減少した。
CRISPR/Cas9
2012~13年に有用性が報告された、細菌に備わっているウイルスに対する獲得免疫の仕組みを転用したゲノム編集技術で、DNA切断酵素のCas9とガイド分子を同時に細胞に入れれば自律的に組み立てられる。
アメリカの開発状況
2014年、ペンシルベニア大学が世界初となるゲノム編集を使用したエイズ治療の試験結果を報告。患者から免疫細胞を取り出し、ZFNを使用し意図的に変異を入れて体内に戻し、CCR5遺伝子を破壊する。HIVが免疫細胞内に侵入する際に利用するタンパク質を作るCCR5を破壊すれば、感染していても免疫細胞が生き残れると予想。結果、安全性に加え免疫再構築の兆候も確認され、後継の試験が複数進行中。また、サンガモバイオサイエンス社では遺伝子変異が原因の血友病やムコ多糖症の患者に、ZFNを用いて血液凝固因子や代謝酵素の正常型遺伝子を肝臓に静脈注射し、治療する試験が進行中。
中国の開発状況
北京大学他が、CRISPR/Cas9を用いてがん患者から採取した免疫細胞PD-1遺伝子を破壊し、患者に移植。がん細胞はPD-1を巧みに利用して免疫細胞からの攻撃を回避するが、PD-1を破壊することで免疫細胞が本来の攻撃力を発揮でき、治療効果が上がると期待。
華中科技大学では子宮頸がんを起こす恐れがあるヒトパピローマウイルスに感染した女性に、TALENまたはCRISPR/Cas9を含む座薬を投与してウイルスを破壊する治療の開発が進行中。