コンセンサスのないまま進む研究開発
ゲノム編集治療で使用するDNA切断酵素は人工の酵素であり、設計、作製、取り扱いの過程で人為的誤りが起きても不思議ではない。
かつて、生体外遺伝子治療の臨床試験で悲劇が起きた。1999年、フランスで遺伝子変異による重症複合免疫不全症の病児11人に対する遺伝子治療試験では、9人で治療効果があったものの、数年後4人で白血病の副作用が起き、うち1人は死亡という重大事故となった。原因は外来の遺伝子ががん遺伝子の近くに組み込まれたことで、想定外だった。
この病気は骨髄移植でしか根本治療できず、ドナーが現れる前に子どもの命が尽きてしまう恐れがある。それもあり親たちは実験的な医療に同意したのだろうが、命を縮める結果となってしまった。
ゲノム編集治療でも、標的以外の部分に誤って変異を入れてしまう「オフターゲット変異」のリスクが考えられる。もし、人の健康に重要な役割を果たす遺伝子にオフターゲット変異が起これば、発がんなど深刻な副作用が出てしまう。人体が直接ゲノム編集を受ける生体内ゲノム編集治療においては、オフターゲット変異のリスクの評価や低減、管理になおいっそうの慎重さを期さなければならない。
ゲノム編集治療の試験では意図的に遺伝子破壊をしているケースが目立つ。CCR5遺伝子に変異を入れるHIV治療は有効かもしれないが、CCR5遺伝子に変異が起きると、ウエストナイルウイルスや日本脳炎ウイルスに対する抵抗性を失うといった恐れも指摘されている。エイズが治っても他の感染症で健康を害しては元も子もない。そもそも、遺伝子治療開発の30年の歴史でまだ承認製剤は10しかない。私たちは人体での遺伝子改変を行う十分な英知を持っていない。
遺伝子治療は薬剤以上の長期的な効果を狙って開発が続けられてきたが、薬剤のリスク評価や管理体系をそのまま当てはめるのは困難だ。またフランスでの病児事故の件もあり、臨床開発は長く低迷した。こうした歴史を直視すれば、研究者や規制当局がオフターゲット変異のリスク評価に対し、体系的に取り組まなければならないのは明白だ。しかし、そのようなコンセンサスがないまま、次々と臨床試験が開始されているのが実情だ。
また、私は生体内ゲノム編集治療試験を進めているアメリカの研究者が、遺伝子の組み込み先として利用するアルブミン遺伝子を、コンピューターの「USBポート」に例えていたのを講演で聞いたことがある。このような軽々しい例えは慢心であり、厳に慎まなければならない。
“将来の”患者へのゲノム編集とその問題
ゲノム編集を使った“将来の”患者に対する医療を目指す動きも出てきた。受精卵の段階で遺伝子変異を修復し、出産後の遺伝子疾患の発症を予防するという構想だ。
出産を目的とした受精卵の遺伝子改変に関しては40年ほど前から論争があり、臨床的、倫理社会的問題から法律で厳格に禁止している国が多い。
こうした中、ヒト受精卵で試したいという研究グループが次々と名乗りを上げている。2015年以降、遺伝子疾患に対する究極の予防医療を目指すヒト受精卵ゲノム編集の基礎研究が、中国とアメリカから5例発表された。この2国では、遺伝子改変を伴う生殖は国の規制で禁止されているのだが、タブーを承知の上で臨床応用に向けて基礎研究を進めるところに執念さえ感じる。しかし、こうした基礎研究が順調に進んだとして、生殖医療クリニックにおいて体外受精で作られた受精卵にゲノム編集が実施される日は来るのだろうか。
イギリスでは2015年、ミトコンドリア病発症予防が目的の、卵子や受精卵での核移植が解禁された。同様に、ゲノム編集を使う予防医療が実施されることは不可避と見る専門家もいる。この場合、ゲノム編集被験者自身はまだ生まれていないわけで、体外受精などと同様、同意するのはその子の親になる夫婦と考えられる。
ZFN
ジンクフィンガーヌクレアーゼ。設定DNA配列に結合するようにジンクフィンガーたんぱく質を改造し、ヌクレアーゼというDNA切断酵素に結合させた構造をとり、1996年頃に初めて有用性が報告された。
TALEN
植物病原菌由来のDNA結合たんぱく質をヌクレアーゼに結合させたもので、2010年に有用性が報告された。ZFNより誤認識が少なくなり、人工DNA切断酵素作成の試行錯誤が減少した。
CRISPR/Cas9
2012~13年に有用性が報告された、細菌に備わっているウイルスに対する獲得免疫の仕組みを転用したゲノム編集技術で、DNA切断酵素のCas9とガイド分子を同時に細胞に入れれば自律的に組み立てられる。
アメリカの開発状況
2014年、ペンシルベニア大学が世界初となるゲノム編集を使用したエイズ治療の試験結果を報告。患者から免疫細胞を取り出し、ZFNを使用し意図的に変異を入れて体内に戻し、CCR5遺伝子を破壊する。HIVが免疫細胞内に侵入する際に利用するタンパク質を作るCCR5を破壊すれば、感染していても免疫細胞が生き残れると予想。結果、安全性に加え免疫再構築の兆候も確認され、後継の試験が複数進行中。また、サンガモバイオサイエンス社では遺伝子変異が原因の血友病やムコ多糖症の患者に、ZFNを用いて血液凝固因子や代謝酵素の正常型遺伝子を肝臓に静脈注射し、治療する試験が進行中。
中国の開発状況
北京大学他が、CRISPR/Cas9を用いてがん患者から採取した免疫細胞PD-1遺伝子を破壊し、患者に移植。がん細胞はPD-1を巧みに利用して免疫細胞からの攻撃を回避するが、PD-1を破壊することで免疫細胞が本来の攻撃力を発揮でき、治療効果が上がると期待。
華中科技大学では子宮頸がんを起こす恐れがあるヒトパピローマウイルスに感染した女性に、TALENまたはCRISPR/Cas9を含む座薬を投与してウイルスを破壊する治療の開発が進行中。