オウム真理教の教祖・麻原彰晃と、元幹部信者12人が死刑執行されたのは、2018年7月。1年が過ぎて、『オウム真理教 偽りの救済』(集英社クリエイティブ)という本が出版された。著者である瀬口晴義さんに、ご寄稿いただいた。
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あれから1年
2018年7月6日朝、マナーモードに設定してあったガラケーを手に取ると、着信記録や伝言メモ、メールの受信履歴が山のように入っていた。上司である東京新聞の臼田信行編集局長、本社の社会部デスク数人、地下鉄サリン事件の遺族である高橋シズヱさんからの着信もあった。何の連絡なのか、瞬時に理解できた。ガラケーでニュース速報を確認するとオウム真理教元代表・麻原彰晃(本名・松本智津夫)らの死刑執行を伝えていた。
予期していたこととはいえ、腕の震えを抑えることができなかった。麻原とともに絞首刑になったのは早川紀代秀(執行時68歳、以下同)、新実智光(54歳)、井上嘉浩(48歳)、中川智正(55歳)、遠藤誠一(58歳)、土谷正実(53歳)の6人。それぞれ教団の「建設省大臣」「自治省大臣」「諜報省長官」「法皇内庁長官」「第一厚生省大臣」「第二厚生省大臣」を務めた幹部信者だった。
死刑を廃止・停止しているEU諸国などから強い批判を浴びた最初の「大量執行」から20日後の7月26日、地下鉄サリン事件の実行犯である広瀬健一(54歳)、豊田亨(50歳)、林泰男(60歳)、横山真人(55歳)、坂本弁護士一家殺害事件の実行犯である岡崎一明(57歳)、端本悟(51歳)の6人の死刑も執行された。確定死刑囚13人全員が死刑になった。あれから1年が過ぎようとしている。
「闇」は残ったのか
死者29人、負傷者6000人超の犠牲を出し、加害者として13人もの死刑が執行されたオウム真理教事件は、日本で起きた最大の刑事事件である。1995年3月の地下鉄サリン事件以降、私は断続的にオウム関連取材を続けてきた。95年10月から97年4月までの約1年半、オウム裁判を専従で取材した。教祖の麻原彰晃の公判をはじめオウム信者が被告となった裁判は連日開廷され、一日に4、5件の審理があるという日も珍しくなかった。オウムにかかわった若者たちの声に何時間も耳を傾ける日々だった。
取材の過程で、地下鉄サリン事件の実行犯である広瀬健一、林泰男、坂本弁護士一家殺害事件の実行犯である早川紀代秀、岡崎一明をはじめ、無期懲役や有期刑を受けた被告たちと東京拘置所で面会し、手紙のやり取りを重ねるようになった。交わした書簡は400通を超える。解脱や悟りを求めて出家したはずの彼らがなぜ人の命を奪ったのか。どうして、一線を越えてしまったのか。ただ、それが知りたかった。
かつての弟子の判決の中で強く印象に残ったのは、地下鉄サリン事件の実行犯・林泰男に極刑を言い渡した東京地裁の木村烈裁判長の言葉だった。裁判長は判決理由を「被告人を一人の人間として見る限り、資質や人間性それ自体を取り立てて非難することはできない。およそ師を誤ることほど不幸なことはなく、その意味において被告人もまた不幸かつ不運であったと言える」と締めくくった。
彼らと接した経験から言えば、麻原を「師」に選ばなければ、彼らは実直に生きて、それぞれの立場で社会に貢献したと、私は断言できる。彼らは罪を裁かれるべき加害者であると同時に、麻原に人生を狂わされた被害者の面も併せ持つ。これがオウム事件の本質だ。
麻原の右腕だった「科学技術省大臣」の村井秀夫が95年4月に殺害され、教祖が弟子に責任転嫁したことで、地下鉄サリン事件の事前謀議など、未解明な部分が残されたことは確かだ。一方、人生を真面目に考えていた若者たちが教祖に取り込まれる原因となった神秘体験や、教団が武装化に至った経緯などについては、公判での弟子たちの証言を通じて多くの光が当てられたと私は思う。「闇」を嘆くよりも、解明された事実を共有する仕組みを考える方が再発防止には有益だが、その共有が十分にできていないことが問題だ。
2011年11月の上告審判決の際、地下鉄サリン事件や坂本弁護士一家殺害事件に関与したとして死刑が確定する中川智正は、弁護士を通じて以下のようなコメントを出した。
〈オウム真理教関連の裁判全体に関しては、残念に思っていることがあります。それは、どうしてあのような事件が起こったのか、必ずしも明らかになっていないと思われることです。事件の動機や背景が、少なくとも事件を知らない世代の方が分かるような形では記録として残されていないと思います。(略)麻原氏が何も話さないままに裁判を終えてしまったことも残念です。個人的な感情を別にしましても、同種事件の再発を防ぐため、彼には話して欲しかったです。私たちが起こしたような事件が2度とないように心から願っています〉
坂本弁護士一家殺害事件などに関与した早川紀代秀は、宗教学者の川村邦光との共著『私にとってオウムとは何だったのか』(ポプラ社、2005年)で以下のようなメッセージを残した。〈オウム事件は、どんな気狂いじみた(原文ママ)ことであっても、それはグルの宗教的動機から起こっていったということ、そしてグルへの絶対的帰依を実践するというグルと弟子の宗教的関係性によって、弟子がグルの具体的な指示、命令に従って事件を起こしていったということ。この二点は、二度とこのような事件が起こらないためにも、見誤ることなく、きちんと理解していただけたらと思います〉
一連のオウム裁判で多くのことが明らかにされたが、宗教的確信に基づいて実行された事件としての掘り下げ方は、十分とは言えなかった。なぜ私たちの社会は事件を防げなかったのだろうか、なぜ解脱や悟りを目指した生真面目な若者たちが暴走してしまったのか、行政の対応やマスメディアの報道に問題はなかったのか――。数多くの疑問に刑事裁判が応えることは不可能だ。
だからこそ、首謀者である麻原の死刑が確定した後、宗教学や社会学、心理学、精神医学など、さまざまな分野の専門家を総動員し、死刑囚からも聞き取りをして、あらゆる角度から光を当てる検証作業を始めるべきだ、と繰り返し私は新聞に書いてきた。しかし、国は権力の意志として「生き証人」を抹殺した。生き証人を活用し、検証作業に取り組んだのは、テロ防止の観点から死刑囚に聞き取りをした米国の専門家だけだった。
解脱や悟りを求めた若者たち
オウム真理教は1984年にヨガ教室「オウムの会」として発足した。「オウム神仙の会」と改称し、87年7月に「オウム真理教」と名前を変えた。その2年後に東京都から宗教法人の認証を得た。地下鉄サリン事件を起こした95年3月の最盛期で出家信者が1400人、在家信者は1万4000人。ロシアにも3万人以上の信者がいたとされる。「貧・病・争」の克服を目指した戦後の新宗教とは対照的に、オウムに魅力を感じていた若者たちは「生きることのむなしさ」への解答を求めていた。経済を優先する享楽的な社会の変革を願う純粋な若者たちの疑問に、麻原は常に断定調で答えた。強い父性が若者たちを吸い寄せた。
バブル経済の全盛期、自分の存在を素直に肯定できない空虚さを秘めていた弟子たちの思いと、教祖が抱いていた強烈な支配欲、破壊願望。双方の周波数がぴたりと同調してしまったと私は考えている。