ただし、「子どもに人権がある」と言っても、それは子どもがひとりでなんでも好き放題やってよい、ということではありません。子どもが未熟な存在であることを前提に、子どもが条約で認められた権利を行使するにあたっては、親やそれに相当する大人が、子どもの発達しつつある能力に応じて適切に導く必要があるということは、子どもの権利条約第5条(親の指導の尊重)でも述べられています。一方で、子どもの権利条約の考え方は「子どもである間は親の言うことをなんでも聞かなければならない」というものではないことも強調したいと思います。親が子どもの成長過程、発達しつつある能力に応じて子どもを指導する責任、権利、義務があるということは、大人の保護が絶対的に必要な乳幼児の頃と、成長して大人の仲間入りが近づく15歳、16歳、17歳とでは親の関わり方は当然違ってくるということです。子どもが子どもとみなされなくなる18歳になったとき、自分の権利を責任を持って行使できるようになるよう、大人はサポートしていきましょう、ということですね。
日本での理解が進まない理由~根強い「権利と義務はセット」論
日本が子どもの権利条約を1994年に批准してから25年以上が経ちますが、子どもの権利についての理解はなかなか進んでいないように思います。
実は、子どもの権利条約を日本が批准したのは158番目と、非常に時間がかかりました。その理由のひとつとして、子どもの権利条約が、途上国や紛争国のような劣悪な環境にある子どものためのもので、豊かな先進国である日本の子どもには関係ないものだ、という感覚があったと言われています。もうひとつは、当時、荒れる学校等の問題を抱える教育現場に「子どもに権利なんて教えたら大変なことになる」という懸念が少なからずあったと聞いています。しかし、子どもが権利を学ぶと本当に大変なことになるのでしょうか。
そもそも、日本では子どもに限らず大人の人権についても「権利のことばかり主張するのはわがままだ」というイメージが強いように思います。人権とは、要するに「人と人との間に上下はない」という思想に基づき「人として大切にされる権利」なのですが、そこが誤解されていると、子どもの人権もなかなか受け入れられないのかもしれません。
よく「権利を行使したいなら、その前に義務を果たせ」、あるいは「権利を教えるなら義務をセットで教えないといけない」などと言われます。
しかし、こうした言説には大きな誤解があります。「権利と義務はセット」という言葉は本来、一個人の中に権利と義務がセットであることを意味しているのではありません。人権について「権利と義務がある」というときは、「個人に権利がある」ことに対し、「国にはその権利を守る義務がある」という関係を意味しているのです。日本ではその点が理解されていないように思います。
また、先ほど申し上げた子どもの権利条約第5条の他、第18条(親の第一次的養育責任と国の援助)には、「親または場合によって法定保護者は、子どもの養育および発達に対する第一義的責任を有する」、締約国は、「親および法定保護者が子どもの養育責任を果たすにあたって適当な援助を与え」ると書かれています。つまり、子どもの権利の保障について責任を負うという義務があるのは親などの周囲の大人であり、国には、親が責任を果たせるよう努力する義務がある、ということになります。
子どもに権利について教えるとき、同時に伝えなければならないのは「権利には制約がある」ということです。子どもに限らず、大人の人権にも制約があり、権利があるからといって、いつも自分の好きなようにできるわけではありません。たとえば、「表現の自由(自由に表現する権利)」は使い方によっては名誉毀損罪とされることもあります。また、今のコロナ禍では「みんなの健康を守る」という、いわば他の人たちの人権を守るために、好きなところに旅行したい「移動の自由(自由に移動する権利)」が制約されています。このように、自分の人権が他人の人権とぶつかるときには、なんらかの制限が課されることは、当然起こり得ます。ですから、必要なときには自分が持っている権利を主張し、行使していくけれども、それらが制約される可能性もあると理解し、場合によっては受け入れていく。権利の主体として、皆がこのバランスを理解することが大事なのです。権利について子どもに教えることは、わがままな子どもをつくるのではなく、自分が持っている権利にも制約があるということを理解し、自由な社会の中で責任ある行動をとれる人間を育てることになるでしょう。
大人は子どもの意見を重く受け止めなければならない
こうしたことを子どもが学ぶ教材として、学校での決まり事や校則は格好のツールになると私は思います。
たとえば、他の人の学習権(教育を受ける権利)のために静かな学習環境をつくることを目的とした決まりごとや校則もある一方で、「下着の色は白」「黒い髪でなくてはいけない」など、誰かの人権を守るために作られたとはいえないような規則もあるかもしれません。「白でない下着」「黒くない髪」が誰かの人権を守るために必要な制約でないどころか、そのために生まれつき茶色っぽい髪の子どもが注意されたり、校則を破っているように周りから見られたりすれば、より大きな問題です。こうした校則がなぜ必要なのか、子どもの側から問いかけたり、見直しを提案したりして、ぜひ先生たちと議論してみてほしいと思います。
校則をつくる、あるいは見直す過程に子どもが参加するということは、人権教育の観点から非常に大切です。子どもの権利条約第12条は「意見表明権」と訳されることが多いのですが、国際的には「子どもの意見の尊重」、「子どもが意見を聞かれる権利」、あるいは「子ども参加」という言葉で紹介されています。この条文の内容は、「子どもに関することについては、子どもは自由に意見を言うことができ、その意見は尊重されなければならない」というもので、校則はまさに子どもに関わることですから、当然、学校側は子どもの意見を聞かなければなりません。