たとえばあいちトリエンナーレ2019の『表現の不自由展・その後』に出品された『遠近を抱えてPartⅡ』という映像作品には、従軍看護婦の「内なる天皇」を昇華する方法として、昭和天皇の肖像画が燃えるシーンが登場する。この作品に対して、あいちトリエンナーレが開催された当時、名古屋市の河村たかし市長は「多くの日本人の心をも踏みつけた」「公共事業でこれはダメだ」などと発言し、不快感をあらわにした。このように行政が表現内容に踏み込んで判断することに、強い疑問があると藤井准教授は語った。
「もちろん市民が個人としてこの映像作品に不快感を覚え、これを批判することは全くの自由です。しかし、行政の役割は、表現を取り締まるのではなく、広く市民に見せた上で市民が主体的に議論をしていく場を提供することであり、表現を規制することではありません。
政治的中立性は自分の意見を言わないことではなく、自分の意見を言った上で反対の意見も尊重することです。多くの人が訪れる公園の秩序を碑が乱す原因になるというのであれば、行政はむしろ碑の表現を最大限保障しないとならないのです。だから『排外主義者が抗議したから、憩いの場としての都市公園の効用を確保できなくなった』という不許可処分の理由は、到底通用しません」
これまで一貫して、設置団体は「過去の戦争を記憶し、反省することが、日韓・日朝の友好に寄与する」と訴えてきた。碑の設置から17年が経過した今も、それは変わらない。この事実を前提とするなら、「『政治的発言』がなされたという軽微な条件違反を主たる理由にして、追悼碑の撤去を強制することは、表現の自由(憲法21条)や適正手続の原則(憲法31条)に反しかねないと考えます」と、藤井准教授は重ねて指摘した。
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設置更新が不許可になったことで、碑の存続が危ぶまれる状況になってしまった。しかし一度設置した碑を、破壊することは現実的ではないように思われる。「県立公園にあるから紛争が起きる。私有地に移設すればよいのではないか」という意見もあるが、設置団体側は「多くの人が訪れる、公共の場所にあることが何よりも大事だ」と、県立公園にあることにこだわってきた。管理団体側は上告を決めたが、先行きは不透明なままだ。
角田弁護団長は口頭弁論の場で、たびたびリヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー元ドイツ連邦共和国大統領の、「過去に目を閉ざす者は、現在に対してもやはり盲目となる」という言葉を引用していた。過去を見つめ、未来の友好を築く目的で作られた碑の撤去を認める判決は、現在どころか未来に対しても、目を背けることを後押ししているのではないか。
判決公判の傍聴を終えて外に出ると、排外主義者たちが嬉々として原告側支援者に向かって「ざまあみろ!」と叫んでいた。言い返したかった。けれど心の動きとはうらはらに、どうしても口がついてこなかった。