金 四・三事件の影響で、かなりの数の人が日本に密航してきたことは事実です。ただ、帰国事業では約9万人以上の在日が北へ帰ったというわけだから、単に四・三事件に遭った人が日本を介して北に向かったわけではないでしょう。日本に住めない事情があった。昔は日本国籍を取るというのは大変なことだったし、やはり在日は邪魔者扱い、されていたからね。日本における在日朝鮮人に対する差別は、そんなやさしいものではなかった。それを、当事者たちみなが肌で感じているわけです。戦後、南朝鮮へ強制的に送還するという話もあったほどです。在日朝鮮人に対する政策、戦争責任に関する検証や清算を日本政府はしていないでしょう。日本政府はいわば歴史健忘症にかかっているんです。
ヤン でも対立してケンカするわけにはいかないから、一緒にスープを作ってご飯を食べましょうというのが今回の映画なんです。さっきも言ったように私の家はいつもケンカが絶えなかったわけですよ。そこに笑って、ご飯が食べられるようになる人が現れたわけです。
――それが、ヤンさんの夫である荒井さんだったんですね。石範さんは、荒井さんの存在はどういうふうにご覧になりましたか?
金 荒井さんが出てくる場面は、タイトルの「スープ」に象徴されるような日常を切り取っているところですね。彼が日本人であることが面白い。人間はご飯を食べるときは誰しも平穏な日常を過ごす存在であることを表現していると思う。日常も描いていながら、隠れた「イデオロギー」の部分も描く。そういうところを、私は非常に高く評価しています。
ヤン 彼がいることで、すごく家の雰囲気がよくなりました。私のドキュメンタリー映画の中で初めて、日本人が重要な存在として登場するんです。そこは、日本の観客のみなさんにも映画に入りこみやすいかもしれません。
娘も知らなかった母の過去
ヤン 実を言うと荒井がいなければ、この映画を撮ろうと思わなかったんです。私はこれまでオモニが四・三事件に関わっていたこと、済州島に婚約者がいたこと、密航船で逃げてきたことも知らなかった。私は済州島で生まれたアボジと、日本で生まれたオモニとの間の子だと思っていたんです。オモニが四・三の体験者であったことをぽつぽつと語り始めたのは10年前ですね。最初から饒舌に語り始めたわけではなかった。少しずつ四・三について話しているところをビデオカメラで撮影しはじめたけど、映画にしようとは思わなかったです。
〝いまになって母が四・三の話をし始めました〟というテーマでは、作品としては1時間半にもなれへんなと(笑)。むしろオモニの証言を基に、短編映画にして記録として残るものにしようかなという程度でした。そう考えていたときに、荒井と知り合った。
荒井はライターで、人にインタビューをして書くのが仕事なので聞き上手なんです。私が聞いても「もういい聞かんとき!」とかなるんだけど、荒井がオモニに質問をすると、すごく丁寧に話す。オモニはこの何も知らないであろう新しく現れた日本人に、「私の経験を全部教えてあげよう」という感じで具体的に語り始めたんです。日本人である荒井が金日成の肖像画を飾っているような家に通って、オモニに話を聞いている感じが面白くて(笑)。これは一本の映画が撮れそう、というところから始まりました。
――四・三事件のことをテーマにして映画を作りたいということもなかったんですか?
ヤン そうですね。テーマを決めて撮るという意識はなかったです。オモニが四・三のことを話し始めてびっくりしたという感じです。そこから、資料を集めて勉強したところもあります。オモニは、荒井に本当にたくさんの話をしているんです。これは映画に入れることができなかったんですけど、オモニには、日本兵として戦争に行った兄がいたんです。オモニはウエハルモニ(母方の祖母)と一緒に、自分のお兄さんを「天皇陛下万歳!」と言って見送りに大阪から東京まで行ったそうなんです。それで当時、10代のお兄さんが、冬なのに、南方の島に行くからといって半袖の軍服しか着せてもらえない姿を見て、オモニはすごいつらかったと。
金 お兄さん帰ってきたの?
ヤン いえ、戦死の知らせもないままです。オモニは10代の頃にお兄さんと離ればなれになった。私も北朝鮮に帰国させられた兄がいるわけで、同じ境遇なんです。オモニみたいに生きたくないと思っていたけど、実は私たち親子はとても似ているのかなと最近思うようになりましたね。
前にオモニが『かぞくのくに』(2012年)を観たときに、兄を北に帰国させたことについて「あんたはほんまに腹が立っていたんやな」と言ってきた。映画を作るぐらい長いあいだ腹立っていたのかと。それは嬉しい感想ではあったんですけどね。
以前は、「こんな怒ってばかりだと、朝鮮総連ににらまれるし、北朝鮮にいるお兄ちゃんたちにも会いに行けなくなるよ。そんなしんどい生き方するの、やめとき」とオモニは私に言っていた。でも、だんだん「いつでもサムゲタン炊いたるから、映画作るのがんばりや」と言ってくれるようになったんです。その変化の背景には、オモニ自身がお兄さんを亡くしていることがあるんじゃないかなと。どんな人の人生も一筋縄ではいかないというのか、様々な歴史や社会の出来事と繋がっているんだなと改めて理解しましたね。
すべてを語ったあとに
「済州島四・三事件」
「コレクション 戦争と文学 12 戦争の深淵」(集英社)所収 金石範「乳房のない女」註の記述によると――【済州島四・三武装蜂起】 一九八四年四月三日、アメリカが行おうとした南朝鮮単独選挙に対し、朝鮮半島を南北に分断する選挙だとして済州島で武装蜂起が起きた。前年から左翼勢力封じ込めの名目で米軍政が警察や右翼団体を使い島民を弾圧していたことへの不満も引きがねとなった。この蜂起を武力鎮圧する過程で数万人の島民が無差別虐殺された。
金時鐘(キム・シジョン)
1929年朝鮮釜山に生まれ、元山市の祖父のもとに一時預けられる。済州島で育つ。48年の「済州島四・三事件」に関わり来日。50年頃から日本語で詩作を始める。在日朝鮮人団体の文化関係の活動に携わるが、運動の路線転換以降、組織批判を受け、組織運動から離れる。兵庫県立湊川高等学校教員(1973-88年)。大阪文学学校特別アドバイザー。詩人。主な作品として、詩集に『金時鐘詩集選 境界の詩――猪飼野詩集/光州詩片』(藤原書店、2005)『四時詩集 失くした季節』(藤原書店、2010、第41回高見順賞)『背中の地図』(河出書房新社、2018)他。評論集に『「在日」のはざまで』(立風書房、1986、第40回毎日出版文化賞。平凡社ライブラリー、2001)他。エッセーに『草むらの時――小文集』(海風社、1997)『わが生と詩』(岩波書店、2004)『朝鮮と日本に生きる』(岩波書店、2015、大佛次郎賞)他多数。金石範氏との対談した『なぜ書きつづけてきたか なぜ沈黙してきたか 済州島四・三事件の記憶と文学』(平凡社、2015年 増補版)において四・三事件を体験した記憶を語っている。
朝鮮総連
朝鮮総連(在日日本朝鮮人総聯合会)――北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の在日本公民団体。終戦直後の1945年10月15日に結成された在日本朝鮮人聯盟(朝連)や在日朝鮮統一民主戦線(民戦、1951年1月結成)を前身とする。1948年の大韓民国・朝鮮民主主義人民共和国の樹立後、朝鮮戦争(1950~1953年)を経て南北分断が決定的となるなかで、在日コリアンの北朝鮮の共和国公民(国民)としての帰属を明確に打ち出して1955年5月に結成された。民団(在日本大韓民国民団)は、こうした北朝鮮系の団体に対抗する在日コリアンによって1946年10月に結成され、韓国を支持している。朝鮮総連は、東京都に中央本部を置き、各道府県に本部と下部組織をもつ。民族学校を運営したり、朝鮮人が経営する企業に融資するほか、北朝鮮の窓口としてビザやパスポートの発行業務も行なっている。ヤン ヨンヒの父コンソンは、朝鮮総連大阪府本部の副委員長を務めたあと、大阪朝鮮学園の理事長を務めた。(映画『スープとイデオロギー』公式パンフレット 「キーワード解説」(監修 文京洙)より)
帰国事業
帰国事業(帰還事業)1959年12月から二十数年間にわたって続いた北朝鮮への集団移住であり、日本と北朝鮮政府と両国の赤十字によって推進された。朝鮮総連だけではなく、日本のメディアさえも「地上の楽園への民族の大移動」と称賛した。日本社会で差別と貧困に苦しんでいた9万人以上の在日コリアンが、新潟港からの船で未知の国=北朝鮮に渡った。そのほとんどは“南”(韓国)出身者であり、いわゆる「日本人妻」と呼ばれる日本国籍保持者も含まれた。当時、韓国政府は在日コリアンに対して事実上の棄民政策を採っており、経済的にも貧しかった。一方、旧ソ連の後押しもあって経済復興を果たした北朝鮮に人々は希望を託した。日本と北朝鮮の間にはまだ国交が樹立されていないことや、北朝鮮住民の海外渡航の制限もあり、「帰国者」たちの日本への再入国はほとんど許されていない。ヤン ヨンヒの兄3人は、帰国事業によって北朝鮮に渡った。(映画『スープとイデオロギー』公式パンフレット「キーワード解説」(監修 文京洙)より)