――先ほどヤン監督が、緊張するとおっしゃったのには、金時鐘さんがほかならぬ「済州島四・三事件」の当事者であったことがあると思います。その方に映画を観てもらうことの重さを感じていらっしゃる。時鐘さんは、映画をご覧になっていかがでしたか?
金 僕はこの映画を2度観たんだけど、四・三事件が大きくウエイトを占めている映画とは思わなかったな。それよりヨンヒさんのお母さんの姿が印象的だった。ヨンヒさんのお母さんは、日本で生まれて、終戦直前で済州島に引き揚げて、そこからまた四・三で日本に逃げてきたんだよね。つくづく、私たち在日コリアンは、政治的、歴史的なしがらみから逃れられない存在であることを考えさせられた。そんな在日が、日本人へ向けて表現しようとすると、とかく気負いが先立つことがある。訴えるような、プロテスト的な表現を取ることが多いけど、この映画は気負うところがないのがよかったです。それと、ヨンヒさんが、日本人の男性と一緒になって何ら気後れを持たないような感じも爽やかだったね。ヨンヒさんの持っている表現力の率直さがストレートによく出た作品だと思った。それこそ、お父さんも映画の最初に出てきたね。
ヤン ええ、私の長編デビュー作の『ディア・ピョンヤン』(2005年)というアボジを主人公にした映画のシーンを『スープとイデオロギー』でも使いました。
金 お父さんがヨンヒさんに「早く結婚しろ、誰でもいい。アメリカ人と日本人以外なら」と言っていた(笑)。僕は今年、93歳になるんだけど、その言い方に在日の先代たちから続く根っこにある意地みたいなものを感じるんだよ。あのお父さんの言葉は大いに笑った。そう言われていた娘が、よりによって日本人のお婿さんを連れてくるんだから(笑)。でも、お父さんが生きておられても、「まったくお前というやつは!」と笑って結婚を喜んでくれたと思うわ。
それから、映画を観て感じたのは、お母さんはヨンヒさんを、一人娘だからなのか、お嬢さんとして非常に慈しんでいるのがわかる。日本のお客さんが映画を観ると、あのお母さんの一切飾らない性格に少しびっくりするんじゃないかな。お婿さんの荒井さんに対しても、日本人の振る舞いと違って、なんでも率直にありのままをさらすでしょう。でも、あれはお母さんの荒井さんへの精いっぱいのお愛想なんだよな。
しかし、あのお母さんが、荒井さんのために作る鶏のスープに入っているニンニクは入れ過ぎちゃうか? 臭いだろう(笑)。
ヤン 荒井はニンニクが好きなんです(笑)。
金 後にも先にも見たことないよ、あのニンニクの量は(笑)。
あのように、在日と日本人が関係しあうシーンを日本の観客のみなさんがどう感じるか。それと、四・三事件について日本人がどこまで気持ちを寄せてくれるか。私にとって四・三の体験は、いまだに悪夢にうなされ続けるものなんだ……。
決して口にできなかった過去
――映画の中でヨンヒ監督のお母さんが済州島から来た「四・三研究所」の方々に、四・三事件の体験を語り始める場面があります。この場面を、時鐘さんはどう感じましたか?
金 あそこは、お母さんが覚えている限りの記憶のすべてを語っている場面だと思うね。四・三のときに済州島で何が起こっていたのか……。これを語ったら死ぬなということを生理的に感じたまま、日本に来ているからね。
ヤン 私がオモニ(母)にむかしのことを聞いても、オモニは「アボジは済州島の生まれだけど、オモニは日本生まれや」といっていた。そういう割には、済州島の料理作ってくれたりした。「オモニ、済州島行ったことあるの?」と聞くと「いや、ちょっとな」とか、ごまかしているような感じで……。
金 お母さんは絶対話せないんだよ。四・三の話題については触れないという訓練が、できあがっているんだ。僕には、その言えないお母さんの気持ちが痛いほどわかる。
済州島四・三事件
「コレクション 戦争と文学 12 戦争の深淵」(集英社)所収 金石範「乳房のない女」註の記述によると――【済州島四・三武装蜂起】 一九八四年四月三日、アメリカが行おうとした南朝鮮単独選挙に対し、朝鮮半島を南北に分断する選挙だとして済州島で武装蜂起が起きた。前年から左翼勢力封じ込めの名目で米軍政が警察や右翼団体を使い島民を弾圧していたことへの不満も引きがねとなった。この蜂起を武力鎮圧する過程で数万人の島民が無差別虐殺された。
金石範(キム ソクポム)
1925年生まれ。「鴉の死」(1957)以来、済州島四・三事件を書きつづけ、1万1000枚の大長編『火山島』(1976~97年〉を完成。小説集に、『鴉の死』(新装版1971年)、『万徳幽霊奇譚』(1971年)、『1945年夏』(1974年)、『幽冥の肖像』(1982年)、『夢、草探し』(1995年)、『海の底から、地の底から』(2000年)、『満月』(2001年)、『地底の太陽』(2006年)、『海の底から』(2020年)、『満月の下の赤い海』(2022年7月刊行予定)など。評論集に『在日の思想』、『金石範評論集1 文学・言語論』(2019年)などがある。四・三事件に関して詩人の金時鐘氏と対談した『なぜ書きつづけてきたか なぜ沈黙してきたか 済州島四・三事件の記憶と文学』(増補版2015年)がある。
朝鮮総連
朝鮮総連(在日日本朝鮮人総聯合会)――北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の在日本公民団体。終戦直後の1945年10月15日に結成された在日本朝鮮人聯盟(朝連)や在日朝鮮統一民主戦線(民戦、1951年1月結成)を前身とする。1948年の大韓民国・朝鮮民主主義人民共和国の樹立後、朝鮮戦争(1950~1953年)を経て南北分断が決定的となるなかで、在日コリアンの北朝鮮の共和国公民(国民)としての帰属を明確に打ち出して1955年5月に結成された。民団(在日本大韓民国民団)は、こうした北朝鮮系の団体に対抗する在日コリアンによって1946年10月に結成され、韓国を支持している。朝鮮総連は、東京都に中央本部を置き、各道府県に本部と下部組織をもつ。民族学校を運営したり、朝鮮人が経営する企業に融資するほか、北朝鮮の窓口としてビザやパスポートの発行業務も行なっている。ヤン ヨンヒの父コンソンは、朝鮮総連大阪府本部の副委員長を務めたあと、大阪朝鮮学園の理事長を務めた。(映画『スープとイデオロギー』公式パンフレット 「キーワード解説」(監修 文京洙)より)
南朝鮮労働党(南労党)
1946年11月、朝鮮共産党・南朝鮮新民党・朝鮮人民党が合党し結成された。委員長許憲。46年8月の北朝鮮共産党と朝鮮新民党の合党による北朝鮮労働党結成の影響を受け、南朝鮮でも民主陣営を強化すべく呂運亭により3党合党が提起された。しかし共産党の路線転換とも重なり、方針をめぐって3党それぞれが2派に分裂、朴憲永ら左派グループは南朝鮮労働党結成を、呂運亭ら慎重派は社会労働党結成を推進した。呂運亭らは再三提案を行なったが、米軍政の弾圧激化、北朝鮮労働党の支持などにより、慎重派を排除したまま朴憲永中心に南労党が結成された。この結果、南労党は左右合作の可能性を排し米軍政に対抗する階級政党の性格を強く帯びることとなった。当初は米ソ共同委員会に大きな期待をかけていたが、その決裂後は米軍政による激しい弾圧を受け地下化、単独選挙に反対する実力闘争を展開した(5・10総選挙)。49年6月に北朝鮮労働党と合党、朝鮮労働党となる。(『岩波小辞典 現代韓国・朝鮮』(岩波書店)より)
民団(在日本大韓民国民団)
大韓民国を支持する在日朝鮮人の団体。1946年、左派の在日本朝鮮人連盟に対抗し、自由主義派・保守派が在日本朝鮮居留民団を結成、48年大韓民国樹立に伴い在日本大韓民国居留民団と改称。94年現名称となる。(『広辞苑 第6版』(岩波書店)より)