〈滞在経緯の正当化を主張する看板を祈念館に掲示し、それを平和と主張することは、客観的にみて平和と捉えられるものではない。そうした部分からしても、開館そのものを止める、それと同時に、この地区がどういった地区であるのかを示したかった〉(〈〉内は法廷証言より、以下同)
ゼノフォビアを隠そうとすらしない彼は、法廷でよどみなく「ウトロの住民は不法占拠」だと主張していた。しかしそれは違うと、秀煥さんに会った際に私は聞いていた。そんな、ウトロの歴史とは――。
バブルの時代まで、上下水道がなかったウトロ
1930年代半ばまで、京都府宇治市と久御山町(くみやまちょう)にかかる現在のウトロ地区は、府内でも有数の耕作地だった。そこに京都府は逓信省が推し進めていた、国策事業としての飛行場建設の誘致に乗り出す。
1939年に「京都飛行場」が建設されることになると、そこに約2000人の労働者が集められたが、うち1300人が朝鮮人だった。多くが植民地下の朝鮮半島で仕事や土地を奪われ、貧困から逃れるために内地にやってきた人たちだった。当時の朝鮮人労働者はひとたび徴用されてしまうと監視下に置かれ、自由を奪われてしまう。国策事業の京都飛行場建設に就けば徴用されることはないからと、仕事を辞めて来る人もいた。飛行場建設も過酷な飯場での労働だったし、時に空襲警報が鳴ることもあった。それでも、徴用されるよりはマシだったのだ。
戦争が終わると飛行場は払い下げられ、一部は農地転用されて、一部は建設工事を請け負っていた日本国際航空工業のものとなった。同時に、朝鮮人労働者たちはその場に打ち捨てられた。帰国した人もいるが、既に朝鮮半島に家族や家がない人たちは、帰りたくても帰れない。行くあてがない人々は仕事を求めて各地に出向いたり、飯場周辺を耕したり、放置された廃品から金属を集めては売りさばいた。この頃大阪では、砲兵工廠の跡地から鉄くずを持ち出す「アパッチ族」が出現していたが、ウトロも同様だったようだ。
1945年9月には民族の言葉と文化を学ぶための「朝連久世分校」ができ、4年で閉鎖されたものの、その後地域の公立学校で民族学級が開かれるようになった。そんな取り組みもあり、「ここなら朝鮮人らしく暮らせる」と流入してくる人たちもいた。だがウトロの住環境は、劣悪極まりないものだった。
(山本源晙さん)
「雨が降ったら家がすぐに水に浸かる。小さい時は近所に豚小屋があるから、すぐ近くにいつも豚がいて。あの頃のウトロは、そんなところやったね」
山本さんは、終戦から15年経った1960年に生まれている。家が浸水したのは、上下水道が整備されていなかったことが大きな原因だ。どの家も生活用水は地下水をくみ上げていたし、豚はペットではなく、育てて売るための貴重な財源だった。
ウトロのインフラは、1980年代に入っても改善されることはなかった。土地所有者が水道整備を同意しなかったことや、在日は選挙権を持たないからと、政治から無視され続けてきたからだ。しかしこの状況を人権問題として受けとめる日本人が、少しずつ現れるようになった。その1人が、前出の田川明子さんだった。
(田川明子さん)
「初めて来たのは1985年頃ですが、最初は本当にびっくりしました。『水道がない』って聞いて来たんですけど、今どき水道がないなんてって思って。そういう場所が京都と大阪・奈良を貫く近鉄線沿線にあることに驚いたし、『宇治市は何をやってるんだ』と、とにかく怒りがわきましたね」
鹿児島県で生まれ育った田川さんは、1964年に京都の大学に入学した。翌年に日韓条約が締結されるが、キャンパスには日韓条約に反対する学生たちの姿があった。それまで在日の存在を意識することのなかった田川さんは、強い衝撃を受ける。しかし、その当時は彼らと交流していたわけではなかった。その後、指紋押捺問題を通してウトロ出身の女性と知り合い、彼女から「水道がない」と聞いた田川さんは、ウトロに足を踏み入れる決意をする。周囲の大人たちは、「あんなやっかいなところに行ったらあかん」と止めたそうだ。
田川さんら日本人協力者の尽力もあって、「やっかいな」ウトロにも1988年に下水道が敷設される。しかし同じタイミングで、もっとやっかいな問題が起きる。土地所有者の日産車体(旧日本国際航空工業)が、西日本殖産という会社に土地を転売していたことがわかったのだ。この転売には、元住民の自称自治会長が関わっていた。西日本殖産の役員でもあった彼は、転売により億単位の金を得ている。民族学級で教鞭を執っていた過去があり、地区内には教え子もいる。ウトロ中が怒りとパニックに陥るなか、会社側は89年に「建物住居土地明け渡し」訴訟を提起し、住民たちを強制的に追い出しにかかる。
(山本源晙さん)
「僕ね、結婚して何年かウトロの外に出ていたので、裁判が起きた時は何も知らなくて。急に立ち退きやと言われて、『えっどうするの?』って思いました。自分たちの土地ではないことも、この時初めて知りましたね。だから僕ら若い世代は土地を買い取ろうと言ったんですけど、意見が分かれて」
指紋押捺問題
外国人登録法(1952年施行、2012年廃止)により、日本政府は、日本に1年以上滞在する16歳以上の外国人が登録証明書の申請をする際に、指紋押捺を義務付けていた。1980年代になると、人権侵害だとして全国で指紋押捺拒否の運動が広がったが、拒否には1年以下の懲役もしくは禁固、または20万円以下の罰金といった刑事罰が科されていた。93年に永住者および特別永住者に限り指紋押捺義務がなくなったが、制度自体は2000年3月まで続いていた。