「『帰れ』って言って、一緒に帰って何かあったら妻も自己責任。もう非国民扱いでしたね。夫はよく言うんですよ。『仮放免のやつと結婚したらね、その日本人も仮放免みたいなもんで、非国民になっちゃうんだよ。そんなもんだよ』って。たしかに裏を返せば、『そんな人と結婚してるのがいけないんでしょ』って言われていそうな感じがします」
「日本人も仮放免」「非国民」……。マモさんの言葉は精確に状況をとらえていると思う。この国の政府は、国の意向に沿わない「国民」は助けてくれないのだろうとぼくも思うから。
「『すべての人は平等』って謳ってても、現実はそうじゃないっていうことを、夫と会ってから感じました」とまゆみさんは続けた。
「それ以前は、ほんとうに何も考えないでふつうに過ごしてたんですよね。政治も興味ないし。なんの苦労もなかったです。ぬくぬくした生活してたので、苦労が何もなくて、人の痛みも正直わからないくらいだったかもしれない。それが、夫と出会ってからは180度ちがう生活になって。それこそ国との関係というか、厳密にいえば法務省との関係。こんなにいろんな裏の話があるのかって。不透明な部分ですとか、社会の矛盾。この歳になってそれを知って、恥ずかしいことなんですけど」
なぜ難民と認めないのか。難民と認めないなら、なぜ家族と認めて配偶者ビザあるいは在留特別許可を出さないのか。マモさんが原告となって2019年に裁判を起こしたが、地裁も高裁も敗訴となった。
そもそも、トルコ国籍のクルド人は海外では高確率で難民認定されるのに、日本ではこれまで難民と認定されたことはなかった(2022年、初めて1人だけ認定された)。来日してから25年も仮放免状態に置かれているクルド人もいるほどだ。その原因を大橋毅(たけし)弁護士は、トルコ治安当局と法務省が「テロ対策」において協力関係にあるからと見ている(「毎日新聞」2022年8月17日付東京夕刊記事/「トルコ国籍のクルド人、初の難民認定 不合理な構造、変える契機に」)
トルコの軍や警察がクルド人を攻撃しても、それはテロ対策であって迫害ではない。よって迫害から逃れてきた難民ではないという理屈のようだ。協力関係に配慮して難民と認めないなんて、そのこと自体、法務省が取り仕切る難民認定が公正さを欠いていることを示している。その不合理に苦しむのは、マモさんとまゆみさんのように、ごくささやかな幸せを求める生活者だ。
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さらに、入管行政のことを当事者に聞くにつれ、家族と認めるかどうかの判断基準も歪んでいると思われてならない。血のつながった子どもがいるかどうかを重視する偏った家族観である。
「2018年の9月ごろだったかな、仮放免されて間もなく、夫だけ入管からインタビューを受けたんです。そうしたら、難民審査をする担当の人から『あなたたち、子どもはいないのか』『できないのか』ということと、『前の彼女との間に子どもはできなかったのか』『トルコで誰か子どもはいないのか』って聞かれたらしいんですね。夫はカッとなって『外に奥さん待ってるから、直接聞いてよ』って言ったらしいんです。そうしたら『ああ、別にいいんです、いいんです』みたいな感じになって終わったらしいんですけど。夫は『やっぱり子どもを見てるのかなって思った』って言ってました」
実子がいるかを聞くのはまだわかるとして、夫の結婚前の彼女との間に子どもがいるかどうかなんて、一体、難民審査となんの関係があるのだろう。
「関係ないんですよ。ただ、やっぱり子どもなんですよ。それも、夫婦の実子が必要だって言ってみたり、前の彼女の子どものことを言ってみたり、わけわかんない。完全なハラスメントですよね。でも、それを言われると、やっぱり自分を責めてしまう。私が年齢的に子どもを産めないから。『私が彼を苦しめてるのかな。もっと若い子と結婚していれば、もしかしたら子どもができてビザが出てたんじゃないか』って、自分を責めてしまうことは多々あります。夫に申し訳ない気持ちになって」
子どもを持ちたくても、年齢や病など、その人の条件によってどうにもならないことがある。ふだん表には出さなくても、誰にも言えない悲しみを胸の奥にしまっている人もいるはずだ。そんな痛みを抱えた人の心を、入管の対応はさらに傷つけている。なぜ、国の機関にそんな思いをさせられなければならないのか。そしてなぜ、子どもがいなければ家族とみなさないのか。ぼくだって妻との間に子どもはいない(猫はいる)。そうなると家族ではないのか?
様々な理不尽が入管の対応にはつきまとう。だが、仮放免者もその配偶者も、目立つ行動をして入管から報復されるのを恐れ、自分たちの窮状を訴えることができない(実際、入管の報復と思われる事例は存在するのだった)。まゆみさんも当初は及び腰だったが、おかしなことを許せないマモさんの姿勢の後押しもあって、早い段階から2人の名前を出して不合理を訴えてきた。しかし、それでも変わらない現状に、正直、あきらめを抱くこともあるという。
「最初は『黙ってられないよ』と思って、色んな媒体に出て訴えてきたんですけど、でも最近は、やっぱりまた失望してます。裁判をやっても変わらないし、媒体にこんなふうに話しても、状況は何も変わらないっていう。その『変わらなさ』に失望しちゃってる」
まゆみさんの言葉にうなずきながら、ぼくの心は静かに動揺するのだった。この連載記事を書いたからといって、何かが劇的に変わるとはぼくも思っていない。「それでもよろしければ……」と申し訳なさを感じながらお話をうかがっていたのだった。ただ、それでも、知らせなければ変化も生まれない。まゆみさんもその思いで、この取材に応じて下さったのだろう。
一方で、前回の入管法改悪のときから学生たちをはじめ若い人たちが抗議の声を上げていることに、まゆみさんは大いに励まされている。とりわけ、彼女・彼らがSNSを駆使して情報発信する拡散力の大きさには頼もしさを感じるのだった。
「ここ最近は、若い方たちも関心を示してくれるのがほんとうにすごいです。情報の発信の仕方とかも、インターネットを使ってパーッと広めて。紙を刷って1枚ずつ『お願いしまぁす』って渡すよりは、発信力が断然大きいなぁと思って、ありがたいですね。そう考えると、『世の中捨てたもんじゃないな』っていう気持ちもあるんですよね」
たしかにそう思う。そして、彼女・彼らの先行世代であるぼくらが先にあきらめてはいけないとも思う。
まゆみさんが最後に訴えた言葉は、当事者として考えてきた蓄積を感じさせる、大きな説得力を持つものだった。