この指針の規定上、一見、異性愛者やシスジェンダーであることに関する侮辱的言動や、異性愛者やシスジェンダーであることを本人の同意なく暴露されることも、パワーハラスメントに該当するようにも読める。
しかし、パワーハラスメントは「労働者の就業環境が害される」、すなわち精神的な苦痛により労働者の就業環境が悪化し、「労働者が就業する上で看過できない程度の支障が生じる」とき、その支障が「平均的な労働者の感じ方」に照らして客観的に明らかである場合に、はじめてパワーハラスメントとみなされるものである(註9)。
では、「異性愛者は気持ち悪い」「シスジェンダーはおかしい」などと侮辱され、客観的にみて看過できないほどの支障が起こりうるか考えてみてほしい。そもそも「異性愛者」や「シスジェンダー」であることを、あえて取り沙汰すること自体、現在の社会状況ではあまりないのではないか。異性愛者やシスジェンダーであることを本人の意に反して暴露されたとしても、多数派である以上、差別されるような環境、生活が変わるような差別的扱いを受けるとは言いがたく、重大な支障が生じる状況は極めて考えにくい(註10)。だからこそ、多数派は、アウティングを恐れることなく生活しているし、自らのアウティング被害や、周囲を「不快」または「不安」にさせることを気にして、日常会話に「配慮」する必要性もほぼないであろう。実際、結婚や育児に関する話題等を通じて、日常的に「異性愛者」であることを「カミングアウト」している姿はそこかしこで見られる。
少数派にさらなる配慮を強いようとする「多数派への配慮」論
ここで、理解増進法における「多数派への配慮」の議論に立ち返って考えてみたい。
「理解増進法」は「全ての国民」の性的指向及びジェンダーアイデンティティの多様性への理解を目的としている。そして、同法第三条に掲げられているように、理解増進の施策は、「性的指向又はジェンダーアイデンティティにかかわらず、等しく基本的人権を享有するかけがえのない個人として尊重されるものであるとの理念」や「相互に人格と個性を尊重し合いながら共生する社会の実現に資することを旨」とすることを基本理念として謳っている。
このことから、理解増進法で理解すべき対象には、性的指向やジェンダーアイデンティティが非典型(少数派)な場合のみならず典型(多数派)の場合も含まれていることがわかる(註11)。加えて、理解増進法は、国、地方公共団体、事業主(企業等)、学校設置者に、具体的に理解増進のために必要な施策である、啓発、教育、研修、環境整備のための相談機会の確保その他の措置等について、努力することを義務づけている。しかしこの努力義務は必ず実施しなければならないという規定ではないため(「努力」が形になることを問わない規定とも言える)、残念ながら実質的な効力に乏しい規定である。
一方で、多数派に「配慮」すべきという議論からは、いわゆる配慮義務が想起される。例えば育児・介護休業法における配慮義務は、子の養育、家族の介護を困難とさせる配転について、子の養育や家族の介護の状況に「配慮」することを事業主に義務づけている規定で、裁判などで一定の実効性を発揮すると考えられる。
このように、努力義務よりも法的効力が強く、一定の実効性を伴う配慮義務規定を、多数派にのみ恩恵が及ぶ形で持ち込まれたとしたら、理解増進法は極めてアンバランスなものになっただろう。性的指向や性自認を理解する施策については実効性の乏しい努力義務のみ定める一方で、マイノリティにとってのみ、より実効性が強いマジョリティへの配慮義務が置かれる形となるためである。
前述したような、実質的にマイノリティが不利益を被りやすく、マイノリティこそ配慮を強いられている社会状況を踏まえれば、これがより歪なものとして見えてこよう。マイノリティが既に社会から受けている不利益性をより強化し、更なる配慮を法で義務づけ、相対的にマイノリティを更に困難な立場に追いやる法制度となるからである。
必要なのは個別の当事者の事情を考慮した対応
「多数派への配慮」が、冒頭で榛葉幹事長が言及したような、女性用施設におけるシスジェンダー女性の「不快な思い」の解消につながると主張されたとしても、歪な法制となることは変わらない。
なぜなら、(そもそも理解増進法と施設利用は関係がないことが条文上や国会答弁から明らかであるが)既に公衆浴場などの男女別の施設で、利用に関し一定の整理が可能なところについては、公衆浴場法第三条1項に基づき厚生労働省により男女は「身体的特徴をもって判断する」という見解が示されているのである(註12)。
このほか、トイレなどについては、例えば経済産業省に勤務する職員(性同一性障害と診断され、女性として社会生活を送っている)に対する女性用トイレの利用制限をめぐる最高裁判決が好例となるだろう。この裁判は、職員が最寄りの女性用トイレの使用を制限され、別フロアの女性用トイレを使用させられてきたことに異議を申し立てたものである。判決においては、職員が別フロアの女性用トイレを使用しても特段のトラブルが生じなかったことに鑑み、「具体的な事情を踏まえることなく他の職員に対する配慮を過度に重視し、上告人の不利益を不当に軽視する」経産省や人事院の判断が「著しく妥当性を欠いたもの」とされており、この趣旨を更に敷衍する補足意見も付けられた。
このように、「シスジェンダーの女性がトイレや浴場、更衣室」で「不快な思い」ないし「不安」を抱えると指摘される問題を取り出したとて、少数派に対し「配慮」を強いるのではなく、具体的事情に即して、ともすれば軽視されがちな個別の当事者の不利益をしっかりと汲み取って対応すべきである。
にもかかわらず、他の教育、職場、公共サービス等々のさまざまな問題と混ぜ込んで、理解増進法全体に影響の及ぶ「多数派への配慮」を規定することで対応しようとすることが、いかに乱暴であるかは言うまでもない。
理解増進法第十二条に盛り込まれた「全ての国民の安心」とは?
「多数派への配慮」条項は大きな批判を浴び、一部野党提出の法案には盛り込まれなかった。しかし代わりに「この法律に定める措置の実施等に当たっては、性的指向又はジェンダーアイデンティティにかかわらず、全ての国民が安心して生活することができることとなるよう、留意するものとする」という条項が、法全体に影響を及ぼす形で、第十二条として新たに盛り込まれた。
シスジェンダー
出生時に割り当てられた性別に違和感がなく性自認と一致し、それに沿って生きる人のこと。
(註1)
時事通信「LGBT法、独自案協議 シスジェンダーに配慮―維・国」2023年5月19日(https://www.jiji.com/jc/article?k=2023051900853&g=pol〈2023年10月15日取得〉)
(註2)
釜野さおり・石田仁・風間孝・平森大規・吉仲祟・河口和也、2020、『性的マイノリティについての意識:2019(第2回)全国調査報告会配布資資料』JSPS科研費(18H03652)「セクシュアル・マイノリティをめぐる意識の変容と施策に関する研究」、(研究代表者 広島修道大学 河口和也)調査班編(http://alpha.shudo-u.ac.jp/~kawaguch/2019chousa.pdf〈2023年10月15日取得〉)
(註3)
日本労働組合総連合会、2016、「LGBTに関する職場の意識調査」( https://www.jtuc-rengo.or.jp/info/chousa/data/20160825.pdf?8620〈2023年10月15日取得〉)
(註4)
埼玉県、2021、『埼玉県 多様性を尊重する共生社会づくりに関する調査報告書』(、https://www.pref.saitama.lg.jp/documents/183194/lgbtqchousahoukokusho.pdf〈2023年10月15日取得〉)
(註5)
調査で報告されているあからさまな差別の他に、一見「性的指向」や「性自認」と無関係に見えても、実質的に性的マジョリティが有利になるような制度や慣行の存在も指摘できよう。例えば、企業において、明文化されていないが、「結婚」している人のみが昇進し、そうでない人は昇進しないという慣行があるとの事例が聞かれる。この慣行は、現在の制度上、性的マイノリティの多くが「結婚」という条件を満たすことができないことから、実質的に不利益を被る可能性が高い。このような制度や慣行は「間接差別」と言われ、性別による差別を禁止している男女雇用機会均等法では、間接差別を禁止する条文が置かれている。諸外国においては性的指向や性自認に関する間接差別を禁止している国も見られる。
〈註6〉
三菱UFJリサーチ&コンサルティング『令和元年度 厚生労働省委託事業 職場におけるダイバーシティ推進事業 報告書』2020、p236
(註7)
ILO(2015)”Discrimination at work on the basis of sexual orientation and gender identity: Results of the ILO’s PRIDE Project”(https://www.ilo.org/wcmsp5/groups/public/---dgreports/---gender/documents/briefingnote/wcms_368962.pdf〈2019年7月1日取得〉)。なお、邦文は中島圭子、2015、「LGBT法連合会がオルネイ部長と懇談」(ILOジェンダー・平等・ダイバーシティ部長のショウナ・オルネイ氏来日特集)『WORK&LIFE 世界の労働』日本ILO協議会(26)、p21~25に掲載されている。
(註8)
日本放送協会「同意なき性的指向暴露“アウティング”巡り 労災認定 全国初か」2023年7月24日(
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20230724/k10014140411000.html〈2023年10月15日取得〉)
(註9)
被害を受けたものの心身の状況や受け止めには「配慮」に留まる規定となっている。
(註10)
一方で、性的マイノリティへの差別が存在する故に、性的マジョリティも、「性的マイノリティであろう」もしくは「性的マイノリティに見える」という、性的指向や性自認が非典型であるという憶測に基づく差別を受けやすい社会環境があることは、別途留意すべき事項である。
(註11)
ただ、性的マイノリティの基本的人権が尊重されていない場合は、性的指向やジェンダーアイデンティティの多様性を理解することが、マイノリティの人権尊重に繋がりやすいとはいえよう。
(註12)
以下は理解増進法成立前に国会答弁で示された政府見解を文面にしたものと解される。厚生労働省医薬・生活衛生局衛生課長「公衆浴場や旅館業の施設の共同浴室における男女の取扱いについて」2023年6月23日(https://www8.cao.go.jp/rikaizoshin/meeting/k_1/pdf/ref3.pdf〈2023年10月15日取得〉)
(註13)
加えて、「全ての国民が安心して生活〜」の「安心」が主観的な文言であり、どのようにも解釈できてしまうとの声も聞かれたが、この点、政府の担当として答弁に立った小倉將信共生社会担当大臣(当時)は、「EBPMの推進は、政策の有効性を高め、国民の行政への信頼の確保に資するものでありまして、本法案における理解の増進に関する施策の推進等におきましても大事にしなければならない視点だと考えております。」と答弁している。内閣府によれば「EBPM(エビデンス・ベースト・ポリシー・メイキング。証拠に基づく政策立案)」とは、「政策の企画をその場限りのエピソードに頼るのではなく、政策目的を明確化したうえで合理的根拠(エビデンス)に基づくものとすることです。政策効果の測定に重要な関連を持つ情報や統計等のデータを活用したEBPMの推進は、政策の有効性を高め、国民の行政への信頼確保に資するものです。」とされている。主観的な「安心」で振り回されないよう、この点でも釘が刺されているといえよう。