しかし、2012年に「教育行政基本条例」や「学校活性化条例」が制定されると、学校は児童・生徒にとって過度な競争の場となり、現在は数値と競争、そしてルールを守らない児童・生徒の排除が教育の軸に置かれる。教師もまたテストの結果が評価の要素とされて給与に反映される制度が出来上がっている。
熟考の末、再び筆を執った久保は、テストの点数だけで児童・生徒を評価しようとする全国学力調査や、平均点の数値で教師を画一的に評価しようとする新自由主義価値観を教育現場に押し付ける大阪市の姿勢にも言及した。
以下、文面を抜粋する。
大阪市長 松井一郎様 大阪市教育行政への提言「豊かな学校文化を取り戻し、学び合う学校にするために」
子どもたちが豊かな未来を幸せに生きていくために、公教育はどうあるべきか真剣に考える時が来ている。学校は、グローバル経済を支える人材という「商品」を作り出す工場と化している。そこでは、子どもたちは、テストの点によって選別される「競争」に晒される。そして、教職員は、子どもの成長にかかわる教育の本質に根ざした働きができず、喜びのない何のためかわからないような仕事に追われ、疲弊していく。(中略)
3回目の緊急事態宣言発出に伴って、大阪市長が全小中学校でオンライン授業を行うとしたことを発端に、そのお粗末な状況が露呈したわけだが、その結果、学校現場は混乱を極め、何より保護者や児童生徒に大きな負担がかかっている。結局、子どもの安全・安心も学ぶ権利もどちらも保障されない状況をつくり出していることに、胸をかきむしられる思いである。
つまり、本当に子どもの幸せな成長を願って、子どもの人権を尊重し「最善の利益」を考えた社会ではないことが、コロナ禍になってはっきりと可視化されてきたと言えるのではないだろうか。社会の課題のしわ寄せが、どんどん子どもや学校に襲いかかっている。虐待も不登校もいじめも増えるばかりである。(後略。全文は「大阪市立木川南小学校・久保校長の『提言』全文」〈「朝日新聞デジタル」2021年5月21日〉参照)
競争主義への意義申し立て
久保「2000年以降、すごく競争主義、市場原理が導入されてきました。そして『先生らが怠けている』『子どもを競い合わせなあかん』という新自由主義の風潮が、橋下徹さんが首長になったことで加速されていきました。現場の教師に対して、いろんな命令が降りてきて、それらは「この通りにやらないと、違反の対象になります」という締め付けがセットでした。僕ら教師は痛みを我慢しても良いのですが、本当にこれが子どものためになっているのかな、こんな数値目標を追いかけてそれを達成することが学校の仕事なのかなと常に思っていました。教師も教育委員会も管理されると、ナチス・ドイツのアイヒマンと一緒で、『これは自分の業務なんだ』と疑問も持たずに仕事をする。また、そういうことができる人が評価もされ、重宝され出世していく、そんな構造になってしまいました。
自分はそれなりに抗ってきたつもりやけど、結局は、それに加担してきた。やっぱり、どっかで『もう仕方がないんや』『僕1人が言ったところで、どうなるわけでもないし』とか、ごまかしていた。あんまり考えるとしんどくなるから、考えないようにしてたんやと思います」
それでもたった1人で声を上げたのは、37年の教師生活に対して嘘をつきたくないという思いだった。
久保「担任を持つと本当に多様な子がいてて、その中で『これ、自分1人だけの意見やから、言わんとこ』と思ってる子たちに『いや、そんなことない、1人の意見でも言っていいんや、それをちゃんとみんなが聞けるクラスにしていこう』、と伝えて、僕は学級運営していたんです。そんな僕が今自分が抱えているモヤモヤに声を上げずに退職したら、今まで関わらしてもらった子どもたちをすべて裏切ることにもなる。逆に言ったら、僕の教師生活を自分でなかったことにしてしまう。一生後悔して、死ぬ時に『なんであの時、言えへんかったんやろ』って後悔するのは、嫌やったんです。市長に向けて書きながら、結局、僕自身に問うてたんやと思います。
自分は教師になった時に理想があって、こういうことをしたいと思っていたはずやのに、今の大阪はそうじゃない教育になっている。障がいのある子も、外国籍の子も、いろんな子たちが、共に学んで、共に育っていく、そういう学校こそが、公教育、義務教育として必要なもので、自分もそこに教師として加わっていこうと思っていたのに、もう仕方がないと目をつぶってきた。執筆の動機はそのことに対する、自分自身への怒りみたいなところが、大きかったと思います」
広がる支持、しかし下された処分
現職の校長の手によって出されたこの提言書は多くの保護者、教育者に支持された。255人もの関係者から賛同の意見書が集まり、山本教育長宛てに提出された。
誰もが幸せに生きる権利を持っており、社会は自由で公正・公平でなければならないはずだ。
「生き抜く」世の中ではなく、「生き合う」世の中でなくてはならない。(提言書より)
かつてテレビで放映されていた学園ドラマなどには「点取り虫」という言葉が登場した。学校生活において重きを置くのは、「良い学校」「良い会社」に入るために必要なテストの点数だけというガリ勉生徒とその価値を押し付ける教師(たいてい教頭)を揶揄する言葉であった。主人公は人間的な素養や知性とは関係のない愚かな点取り競争を軽蔑していた。しかし、まさに「点取り虫」とそれを生産する教師が評価されているというのが、現在の大阪市ではないのか。
アイヒマン
アドルフ・アイヒマン(1906~1962年)。ナチス・ドイツの親衛隊隊員として、強制収容所へのユダヤ人移送に際し指揮官的役割を果たしたが、第二次世界大戦後の裁判では命令に服従しただけだと主張した。
(*)
改正教育基本法では第16条に「教育は、不当な支配に服することなく、この法律及び他の法律の定めるところにより行われるべきものであり、教育行政は、国と地方公共団体との適切な役割分担及び相互の協力の下、公正かつ適正に行われなければならない。」とある。
「GIGAスクール構想」
GIGAはGlobal and Innovation Gateway for Allの略。義務教育を受ける児童・生徒に1人1台の端末を貸与し、インターネット環境を整備してデジタル教科書などを使用したITC教育を行うという文部科学省の取り組み。