目取真 以前、鹿児島県を訪ねた際、沖縄戦に参加した元陸軍兵の方から話を聞いたことがあります。摩文仁(まぶに)の戦場で米軍と撃ち合っているとき、弾が切れると中学生が補充していた。米軍はそれを知って狙い撃ちするので、中学生は怖くて弾を抱えたまま壕から出ることができない。弾が切れた日本兵は、「早く持ってこい。何をやってる、馬鹿野郎」と怒鳴りつける。それで意を決して出たら撃たれて倒れる。次の中学生も怒鳴られ、走って出て行き撃たれる。元陸軍兵の方は、その様子を見て「ああ、この世の地獄だ」と思ったといいます。
また、別の元陸軍兵の方はこう話していました。「戦争というのはね、現役兵が戦うものなんです。体力がある20代の若者が、現役兵として一緒に生活をし、厳しい訓練を積んで、しっかりした指揮・命令の下で戦ってはじめて、ちゃんとした戦闘になるんです。素人を集めてにわかに部隊を作っても、戦えるわけがないんです」。中学生たちを戦場に動員したことが、いかに無謀なことだったか。最前線で戦った兵士の言葉として、強い説得力を感じました。その方はまた、次のようにも話していました。「沖縄戦のことを激戦という人がいますけどね、激戦というのは同じくらいの兵力の軍隊が戦うから激戦になるんです。沖縄戦は激戦じゃなかった。私たちは一方的に米軍にやられていたんです」と。これが当時の現役兵の実感ですよ。きれいごとなんてどこにもない。そういう現実を学ばないといけない。
――その後、お父さんはどう動かれたのでしょうか。
目取真 4月16日に米軍が伊江島に上陸し、本部半島にいた日本軍は、名護の多野岳(たのだけ)に敗走します。山中で遊撃戦(ゲリラ戦)を戦うたてまえですが、実際は敗残兵として山中に隠れるわけです。父も鉄血勤皇隊の仲間と多野岳に移動します。ところが、仲間とはぐれてしまい、山の中で会った日本兵5人と行動することになった。多野岳のふもとで女性が父に、「軍服を着ていたら米軍に殺されるから」と言って、息子さんの着物を着せてくれたそうです。多野岳から名護の町に下り、三中(沖縄県立第三中学校)の敷地に作られた米軍のゴミ捨て場で食べ物を拾い、日本兵たちに持ち帰っていたそうです。小柄な14歳の子どもですから米兵は怪しまない。ある日、煙草を拾ったそうです。祖父が煙草好きだから、と袋に入れていたら、父が食料を探しに行っている間に、日本兵が煙草を見つけ、「どうしてこんなのを隠してるんだ」とすごく怒られたそうです。それで父のことを疑うようになったんでしょう。夜、父が横になっていると、日本兵たちの話し声が聞こえたそうです。「こいつは山を下りているときに、米軍に通報して、自分たちの居所を教えるかもしれない。今、ここで殺そう」と話していた。震えながら寝たふりをして聞いていると、1人の日本兵が「そんなことはできない」と止めたそうです。もし止めていなければ、殺されていた。
米軍より恐れられた「日本軍」
――日本軍が動員した少年までも、手にかけて殺してしまうことを日常の中で謀議する。そういう空気であればこそ、住民虐殺もまた同様に常態化していたということですね。
目取真 今帰仁村でも「住民虐殺」は何件も起こっています。海軍の魚雷艇部隊と特殊潜航艇部隊が今帰仁村の運天港に配備されていました。1945年4月の初旬に米軍の攻撃でやられて、陸戦隊になって八重岳の陸軍と合流するんです。この海軍部隊があちこちで住民を虐殺しています。本部の国民学校の校長だった照屋忠英(てるや・ちゅうえい)さんも軍に協力したにもかかわらず、スパイ容疑で殺されました。
当時の沖縄の住民は日本軍を「友軍」と呼んで信頼し、協力してきた。にもかかわらず、敗残兵となった彼らは、昼間は山中に隠れ、夕方になって米軍が集落からいなくなると、山から下りてきて住民虐殺や食料強奪をくり返した。今帰仁では海軍の部隊に謝花喜睦、謝花喜保さんが切り殺され、直後に私の祖父の所に「お前も狙われているから逃げろ」という連絡が来て、祖父は逃げて助かっています。私の叔母の話では、夕方になると日本兵が軍刀をじゃらじゃらさせながら家に来て、祖父の居場所を聞いていたといいます。
――米軍よりも日本軍が恐れられていたという証言は本当に至るところで聞きますが、かように住民を襲った背景には何があったのでしょうか。
目取真 1944年10月10日、沖縄全土に米軍機が大規模な空襲を行います。その前日、牛島満(うしじま・みつる)司令官以下、長参謀長をはじめ沖縄各地の軍幹部が兵棋演習のため那覇に集まり、夜は宴会を開きます。軍幹部たちは朝まで酒を飲んで寝込んでいたところ、早朝から「十・十空襲」(※6)が始まります。軍幹部たちの油断と対応の遅れが被害を大きくしました。当時、牛島司令官は那覇の大道(だいどう)にあった旅館に宿泊していて、空襲の翌日そこで会議が開かれ、数人の兵士が植木などの手入れをしているふりをして庭でスパイを警戒していたそうです。その役目を務めた兵士に話を聞いたことがあります。軍の幹部たちは、演習や宴会の直後に空襲があったことに注目し、沖縄の住民にスパイがいて米軍に知らせたのではないか、と話しているのが聞こえたそうです。
――住民は潜在的なスパイだという意識が軍に刷り込まれていたわけですね。
実相
「実相」1実際のありさま。ありのままの姿。2仏語。真実の本性。『デジタル大辞泉』より一部引用)。
(※1)
太平洋戦争末期の沖縄で、戦闘要員として動員された14~17歳の男子中学生による学徒隊。
(※2)
1920年石垣島生まれ。陸軍予科士官学校卒業。1945年2月に特攻隊の一つである誠第17飛行隊の隊長に任命され、同年3月26日、沖縄戦最初の特攻隊員として石垣島から出撃。慶良間諸島沖でアメリカ軍艦隊に突入し死亡した。
(※3)
1944年10月、フィリピン・ルソン島で大日本帝国海軍によって編成された「神風特別攻撃隊」の一つ。関行雄隊長(海軍兵学校出身の艦上爆撃機パイロット)が率いる敷島隊は、同月25日に零式艦上戦闘機(通称零戦)に250キロの爆弾を搭載して出撃。レイテ島沖でアメリカの空母群に体当たり攻撃をし、空母1隻を沈没させて、特攻攻撃による初の戦果をもたらした。
(※4)
白菊特別攻撃隊。沖縄戦での特攻作戦のため、1945年4月に徳島県の海軍航空基地で、徳島海軍航空隊の隊員など約250人を集めて編成された。鹿児島県の串良海軍航空基地に場所を移し、同年5月24日、偵察員を育成する低速練習機「白菊」に500キロの爆弾を搭載して初出撃。同年6月にかけ、5回に分けて95人が出撃し、56人が死亡した。
(※5)
沖縄本島で1944~1945年にかけ、15~18歳の少年1000人超を集めて結成された遊撃部隊。スパイ養成機関とも言われた陸軍中野学校の出身者が中心となり、第一護郷隊、第二護郷隊の2部隊を編成した。地上戦が始まるとゲリラ戦に投入され、第一護郷隊は多野岳や名護岳、第二護郷隊は恩納岳に布陣して作戦に従事。隊員の約160人が死亡した。
(※6)
1944年10月10日アメリカ軍が南西諸島に対して行った大規模空襲。早朝から夕方まで9時間近くにわたり、のべ1400機近くが総量540トン以上の爆弾を投下した。那覇市街地の9割近くが消失したのをはじめ、各地が壊滅的な被害を受けた。民間人の死者は300人以上とも言われる。
(※7)
沖縄県の名護市と宜野座村にまたがる米軍基地。久志岳を中心とする山岳・森林地帯のシュワブ訓練地区と、辺野古の海岸地域にあるキャンプ地区からなる。総面積は約20.63平方キロメートルで名護市の面積の約10%にあたる。
(※8)
渡嘉敷島の陸軍海上挺進戦隊第3戦隊戦隊長であった赤松嘉次(あかまつ・よしつぐ)大尉のこと。渡嘉敷島住民の強制集団死(いわゆる「集団自決」)への関与は、裁判(2005年に提訴され、2011年に判決が下された通称「大江・岩波裁判」)を通じ事実として認定された。
(※9)
沖縄で地上戦が始まった後、多数の民間人が戦災を逃れて自然壕(ガマと呼ばれる洞窟)や墓所などに避難していたが、旧日本軍は陣地として使用するという理由で壕や墓所を強奪し、民間人を追い出した。戦争経験者から多数の事例が証言されている。
(※10)
1965年、歴史学者の家永三郎が国を提訴した裁判。家永は、執筆を務めた高校日本史教科書の検定不合格を不服とし、文部省(当時)による教科書検定は、憲法が保障する学問の自由、検閲の禁止などに反しており違憲であると訴えた。1965年提訴の第1次訴訟、1967年提訴の第2次訴訟、1984年提訴の第3次訴訟があり、第3次訴訟では最終的に1997年の判決により、数カ所の検定が違法であると認められた。
(※11)
九州南端から南西諸島にかけて自衛隊の体制を強化する日本政府の方針。2010年の防衛大綱で方針が示された後、与那国島(2016年)宮古島(2019年)、石垣島(2023年)などに自衛隊駐屯地が開設されている。