目取真 日本軍は、米軍の情報収集能力の高さを認識できず、米軍が的確に攻撃するのは沖縄の住民がスパイをしているからだ、と考えるわけです。そのために今帰仁村をはじめとした北部地域では住民虐殺が相次ぎます。今帰仁村の住民は米軍によって、東側半分は羽地村(はねじそん)の田井等(たいら)に収容され、西半分の人は、今のキャンプ・シュワブ(※7)がある大浦崎に収容されます。米軍の記録には、日本軍の「住民虐殺」があったから、住民を保護するために収容したとなっています。このような体験が「軍隊は住民を守らない」という沖縄戦の教訓を生み出します。令和書籍は、そういう沖縄戦の実相を教科書に載せたくないわけです。
「玉砕」「集団自決」の実態
――令和書籍の教科書では、「逃げ場を失って自決した民間人もいました」との記述がなされていますが、自決を強要した日本兵という存在が抜け落ちています。集団自決の強制は、2007年3月の教科書検定で消されて以来、そのままです。
目取真 「集団自決」(強制集団死)があった慶良間(けらま)諸島には、海上の特攻隊(海上挺身戦隊)が配置されていました。ベニヤ板で作った一人乗りの特攻艇で、通称は「マルレ」(四式連絡艇)です。沖縄島西海岸に上陸する米艦隊に対し、背後から攻撃する作戦で、渡嘉敷島(とかしきじま)、座間味島(ざまみじま)、阿嘉島(あかじま)にマルレを100艇ずつ置いていた。100艇が一斉に出撃すれば、仮に9割が撃沈されても1割は当たるだろうという発想です。島には朝鮮半島から強制的に連れてこられた軍夫や慰安婦もいました。
しかし、米軍の攻撃を受けて1艇も出撃できないままマルレは破壊され、日本軍は山に立てこもります。その過程で、渡嘉敷島や座間味島、慶留間島(げるまじま)で「集団自決」が起こりました。「集団自決」は戦後になって使われた用語で、沖縄戦当時は「玉砕」と言っていました。本来は部隊の全滅を美化した「玉砕」が、沖縄戦では軍民一体化のもと住民も巻き込んでいきます。住民は陣地構築に駆り出され、兵隊との交流もあったし、慶良間諸島の住民は那覇にも行き来していた。日本軍からすれば、軍の状況を知っている住民が生き残って、米軍の捕虜になると困るんです。だから住民にも「玉砕」が強制された。米軍に対する恐怖心を植え付け、米軍に残虐な形で殺されるよりは、自分の手で家族を殺した方がいい、という心情を作っていった。これは軍だけの問題ではなく、当時の教育やメディアもそういう方向へ住民を洗脳したわけです。
沖縄戦で日本軍と行動を共にした30代、40代の沖縄の男たちは、初年兵教育を受け、中国で戦って除隊した在郷軍人も多かったのです。「集団自決」について軍の関与を否定する者が、「一部の住民が手榴弾を軍から持ち出して勝手に配って自決した」という主張をしています。そんなことはあり得ないんです。軍隊経験のある男たちは、上官の命令に背く抗命罪や部隊を離脱する敵前逃亡が、陸軍刑法で死刑だということを知っています。米軍の攻撃を受けているなか、赤松隊長(※8)の命令や指示がないのに、彼らが勝手に手榴弾を持ち出して部隊を離れ、住民に配るでしょうか。住民を含めて島は軍の統制下にあったんです。赤松隊長は住民の動向を把握していて、自らの意に反した住民を何人も虐殺しています。
令和書籍の教科書の「逃げ場を失って自決した民間人もいました」という記述は、「集団自決」(強制集団死)と日本軍の関係を切り離す作為的なものです。軍が住民に手榴弾を配った事実も記されていません。慶良間諸島で起こったのは、日本軍が進めた「特攻」と「玉砕」の最悪の結果だったのです。
沖縄の人が歴史教科書に望むこと
目取真 沖縄の人が求めてきたのは、日本軍による住民虐殺や壕追い出し(※9)、食料強奪、「集団自決」の命令・強制など、日本軍がやった事実を教科書に記述することです。家永教科書裁判(※10)を含めて、これを主張してきた。その結果、ある程度記述されてきたのに、2007年の教科書検定で「集団自決」の軍による強制を示す記述を削除させました。
――文科省と教科用図書検定調査審議会によるこの検定意見の撤回を求めて、2007年9月には11万6000人が宜野湾(ぎのわん)海浜公園に集って抗議しています。抗議集会の後、文科省は再修正を求めますが、検定意見の撤回はしなかった。文科省は各教科書会社に指示は出さないが、「自主的に」意図に沿う記述になるように誘導したと聞いています。
実相
「実相」1実際のありさま。ありのままの姿。2仏語。真実の本性。『デジタル大辞泉』より一部引用)。
(※1)
太平洋戦争末期の沖縄で、戦闘要員として動員された14~17歳の男子中学生による学徒隊。
(※2)
1920年石垣島生まれ。陸軍予科士官学校卒業。1945年2月に特攻隊の一つである誠第17飛行隊の隊長に任命され、同年3月26日、沖縄戦最初の特攻隊員として石垣島から出撃。慶良間諸島沖でアメリカ軍艦隊に突入し死亡した。
(※3)
1944年10月、フィリピン・ルソン島で大日本帝国海軍によって編成された「神風特別攻撃隊」の一つ。関行雄隊長(海軍兵学校出身の艦上爆撃機パイロット)が率いる敷島隊は、同月25日に零式艦上戦闘機(通称零戦)に250キロの爆弾を搭載して出撃。レイテ島沖でアメリカの空母群に体当たり攻撃をし、空母1隻を沈没させて、特攻攻撃による初の戦果をもたらした。
(※4)
白菊特別攻撃隊。沖縄戦での特攻作戦のため、1945年4月に徳島県の海軍航空基地で、徳島海軍航空隊の隊員など約250人を集めて編成された。鹿児島県の串良海軍航空基地に場所を移し、同年5月24日、偵察員を育成する低速練習機「白菊」に500キロの爆弾を搭載して初出撃。同年6月にかけ、5回に分けて95人が出撃し、56人が死亡した。
(※5)
沖縄本島で1944~1945年にかけ、15~18歳の少年1000人超を集めて結成された遊撃部隊。スパイ養成機関とも言われた陸軍中野学校の出身者が中心となり、第一護郷隊、第二護郷隊の2部隊を編成した。地上戦が始まるとゲリラ戦に投入され、第一護郷隊は多野岳や名護岳、第二護郷隊は恩納岳に布陣して作戦に従事。隊員の約160人が死亡した。
(※6)
1944年10月10日アメリカ軍が南西諸島に対して行った大規模空襲。早朝から夕方まで9時間近くにわたり、のべ1400機近くが総量540トン以上の爆弾を投下した。那覇市街地の9割近くが消失したのをはじめ、各地が壊滅的な被害を受けた。民間人の死者は300人以上とも言われる。
(※7)
沖縄県の名護市と宜野座村にまたがる米軍基地。久志岳を中心とする山岳・森林地帯のシュワブ訓練地区と、辺野古の海岸地域にあるキャンプ地区からなる。総面積は約20.63平方キロメートルで名護市の面積の約10%にあたる。
(※8)
渡嘉敷島の陸軍海上挺進戦隊第3戦隊戦隊長であった赤松嘉次(あかまつ・よしつぐ)大尉のこと。渡嘉敷島住民の強制集団死(いわゆる「集団自決」)への関与は、裁判(2005年に提訴され、2011年に判決が下された通称「大江・岩波裁判」)を通じ事実として認定された。
(※9)
沖縄で地上戦が始まった後、多数の民間人が戦災を逃れて自然壕(ガマと呼ばれる洞窟)や墓所などに避難していたが、旧日本軍は陣地として使用するという理由で壕や墓所を強奪し、民間人を追い出した。戦争経験者から多数の事例が証言されている。
(※10)
1965年、歴史学者の家永三郎が国を提訴した裁判。家永は、執筆を務めた高校日本史教科書の検定不合格を不服とし、文部省(当時)による教科書検定は、憲法が保障する学問の自由、検閲の禁止などに反しており違憲であると訴えた。1965年提訴の第1次訴訟、1967年提訴の第2次訴訟、1984年提訴の第3次訴訟があり、第3次訴訟では最終的に1997年の判決により、数カ所の検定が違法であると認められた。
(※11)
九州南端から南西諸島にかけて自衛隊の体制を強化する日本政府の方針。2010年の防衛大綱で方針が示された後、与那国島(2016年)宮古島(2019年)、石垣島(2023年)などに自衛隊駐屯地が開設されている。