憲法の「知る権利」とジャーナリズムの意義
清水 官邸では、被災地に行くわけでもないのに、新品の防災服を着て会見を始める。政治という名のパフォーマンスになっているというのが極めておかしい。記者も「その防災服、なんのために着ているんですか」とか聞くべきだと思いますが、そういう当たり前の質問が出てこない。日本の記者は、憲法21条の「知る権利」を行使しないんですよ。もっと憲法を武器として活用すればいいのに、権力を敵に回すことを怖がっている。
三浦 憲法21条は、集会、言論、出版など、あらゆる表現の自由を認めています。同時に、検閲はしてはならない、と戒めている。その条文は、私が企業に所属する記者でありながら、同時に「ルポライター」と名乗って活動している最大の根拠にもなっています。21条は、国民の知る権利を保障し、そのための取材の自由についても認めている。福島を訪れた安倍晋三元首相の首相会見に潜り込み、非通告で質問をしたときもそうでしたが、為政者は予定されていない質問に対して、ついつい本音を答えてしまう。それを聞き出すことが、記者として本当は大事なんですよね。
清水 三浦さんの質問によって、為政者でオリンピックを招致した人が「アンダーコントロール」って言ったことを今でも正しいと思っている、ということがきちんと伝わったわけです。それはすごく価値があることですよ。そういう「記者だったらまず聞け」という当たり前の取材ができる人が、ほとんどいなくなっている。ただ一方で、取材を続けるためには、「地雷」を踏んではいけないんです。私は新潮社を退社して、44歳から65歳まで日本テレビにいましたが、その間、一度も裁判沙汰になったことはありませんでした。私はBPO(放送倫理・番組向上機構)問題も担当したので、社内で何か問題が起きたら聞き取りをして、再発防止策を作り、それをBPOに提出したり、記者マニュアルを作ったりもしていました。危機管理を万全に行うかわりに、好きなように取材をやらせてもらっていたんです。
三浦 清水さんが作った番組「南京事件 兵士たちの遺言」(2015年、日本テレビ系)の放映後には、一部のネットの荒れようもすごかったですよね。
清水 「南京事件」放映後は、視聴者からのメールが1000通ぐらい来ました。でも、それをプロデューサーに分析してもらったところ、90%が「よかった」と言っているという結果が出た。その統計を幹部に送ったら今回の「炎上」については問題ないということになりました。炎上には、いい炎上と悪い炎上があるんです。悪い炎上というのは、事実関係の間違いとか取材手法の問題とかで、「ジャーナリズムとしてアウト」というもの。だけど、内容に対して、主義主張が合わない人が騒ぎ立てるというのは別に構わないんです。100%視聴者に合わせられるものなんか作れるはずがないんですから。
三浦 そうですよね。事実を提示して、議論がわき起こって、意見を突き合わせるところに民主主義というのが生まれるわけですから。事実をもとにした議論がなくなれば、民主主義はもろくなる。今、日本の国力が弱っている一つの理由は、ジャーナリズムが弱いところにあるんじゃないかと思います。
清水 事実というのは、たいていの場合、がっかりすることが多くて、あんまり「おもしろい」ようなものではないんです。南京事件についても徹底的に取材すると、日本がひどいことをしていた事実に行き着く。私も日本人の一人として、それは愉快なものではありません。それでも、とにかく事実にたどり着かないと、きちんとした分析ができない。分析を曖昧にしていくと、戦争や過ちが繰り返されてしまう。だから、やっぱり事実を追究するジャーナリズムというのが必要なんです。事実をもとにしっかりと分析をして、評価していかないといけない。三浦さんも「私は」と一人称で本を書いていますよね。それは、書かれた事実やその評価についての責任を自分で背負うということで、すごく重荷なんだけど、同時にこの仕事の価値であって、それこそがジャーナリズムの意義であると思います。
三浦 私たちは組織が利益を上げるためのビジネス・ジャーナリズムではなく、権力を監視したり、あるいは市井の人々の体温を伝えたりする本来のジャーナリズムに立ち戻る必要があるんだと思います。私はそんな健全なジャーナリズムを足場として、一本でも多く優れた新聞記事や書籍を残していきたいし、その可能性や喜びのようなものを若い人たちに伝えていきたい。今はSNSを通じて企業記者も「個」としてつながれる時代ですので、所蔵組織にとらわれず、ジャーナリズムの志がある人たちの横のつながりがもっともっと広がっていけばいいなと思っています。