北角裕樹(きたずみ・ゆうき)という名前が日本中に知れ渡ったのは、2021年4月18日のこと。同年2月1日に起きたミャンマーでの軍事クーデターを取材中に国軍に不当逮捕された日本人ジャーナリストとして広く報道されたのである。明確な罪状も無いままにインセイン刑務所に1カ月近く拘束されるも5月14日に解放されて帰国。その後も精力的にミャンマーの民主化運動を支援し続け、今年(2025年)3月に大震災が襲うと直後から被災者の支援に奔走している。北角はミャンマー問題に精通した記者として、また人道支援家としてすっかり認知されている。
北角裕樹さん
しかし、彼が30代の頃に大阪の市立中学の民間人校長に就いていた事は意外に知られていない。民間人校長は橋下徹市長時代の2013年度に導入された制度で、民間企業のノウハウを教育現場に取り入れることを目的にしたものであったが、採用された新校長によるセクハラやパワハラが当初から噴出し、資質において問題が指摘されていた。勤務中に学校を離れる、経歴詐称、PTA会費の無断持ち出しなどの不祥事が相次ぎ、教育現場経験が無いことから、教員との信頼関係が築けず、「思っていたのと違う」というような理由から短期間で退職する者も増えていった。当初は「100人の民間人校長を採用する」(橋下市長)ということで始まった制度だが、結果的に6割を超す民間人校長が問題を起こし、生徒に接する教員の質の低下にもつながってしまった。公募を経て新聞記者から大阪市の歴代最年少校長になっていた北角自身も就任2年目の2014年7月に重大な信頼失墜行為があったとして減給3カ月の懲戒処分を受け、依願退職している。
現在は公募こそ続いているが、じり貧になっている大阪市の民間人校長とは何であったのか。今の北角の活動を見れば、人道、人権に関する高い意識と行動力でその人格は教育者に適任のように見える。一方で、大阪の教育者の間では、「ミャンマー支援はしたいけれど、校長時代の北角さんの所業を思うと一緒に何かをするのには躊躇がある」という声も聴かれる。クーデターと震災に苦しむミャンマー市民を支援するにあたり残念な分断があるならば、それを繋げる意味でも北角に虚心坦懐に当時のことを語ってもらうことを企画した。辞任した大阪の元民間人校長が発信することはおそらく初めてではないだろうか。
*****
新聞記者から民間人校長に
――まず北角さんがミャンマーに関して現在行っている活動を教えてもらえますか。
北角裕樹(以下、北角) 昨年(2024年)の9月からタイのメーソットにオフィスを構えました。僕は民間人校長を辞職して、2014年からミャンマーに渡りました。ヤンゴンで日本語情報誌の編集長や映像制作の仕事をしていたのですが、クーデターの年に逮捕されてしまいました。その後、いろいろな人たちの協力で助けられました。頂いた命だと思っていますのでその恩返しをしたいという気持ちがありました。映像作家の久保田徹さんが2022年7月に市民の抗議デモを取材中に拘束された事件はとても他人事ではなくて、解放に向けて救援活動を行いました。記者会見を僕が日本で行ったり、彼のお母さんと一緒に差し入れをしたりしていたんです。久保田さんが解放されると、これからは自分たちで映像を作るだけではなくて、ミャンマーの民主化のためにがんばっている制作者の支援につながるようなことをしようと考えて、「ドキュ・アッタン(Docu Athan)」という団体を久保田さんと作りました。メーソットはミャンマーとの国境の地域なのですが、ジャーナリストだけでも100人以上がいて、日本の方からドネーションでいただいたカメラを彼らに貸し出したり、またその活動に対して助成をしたりしています。震災が起きてからは、被害の大きいザガイン地方やマンダレーで地元の市民団体を通じての被災者支援を始めています。
「ドキュ・アッタン」の現地スタッフと、寄付された機材を確認する北角さん(右)
――北角さんのミャンマーに対する支援活動はその発信力とも相まって、多くの人が耳目にしています。今回はその前のキャリア、大阪市の民間人校長時代のことについて個人的な総括をしてもらいたくて時間をもらいました。他者にゴシップのように書かれるよりも自身の口から語ってくれることで、ミャンマー民主化サポートについて小さな分断が起きているならそれを繋げられるかと思うのです。また北角さんの記憶と言葉が、大阪の教育行政の総括になっていくのではないかと思います。
北角 はい。民間人校長時代のことについては、僕も結果的に周囲にご迷惑をお掛けして、自分できちんと決着もつけらずにいる関係者の人も少なくないのです。校長としての僕を支援して頂いていた方にも、突然、辞める形になって不義理をしていることは常々感じていました。だからこういう整理する機会をいただけたことに感謝しています。
――まず当時は日経新聞の記者だった北角さんがどういう経緯で民間人校長に応募されたのでしょうか。
北角 記者として、僕は社会部が長くて、教育担当をしていたのですが、そのときの取材先の一人が、藤原和博さんだったんです。元リクルートの社員で2003年から5年間、東京の杉並区立和田中学校で民間人校長をされた方なんですけども、その藤原さんのやっている「よのなか科」のような、学校により多くの大人の人を招いて生徒に会わせて刺激を与える手法が非常に新鮮に思えたんですね。それで2011年に大阪市長の橋下徹さんが教育委員会との対立を経て民間人校長を100人登用すると宣言したんです。100人も募集するんだったら、僕ももしかしたらなれるかもしれないと思って藤原和博さんのところに相談に行きました。そこでがんばれよと励ましていただいて挑戦してみようと思ったわけです。
――100も採用するなら、自分も入れると思われた。このとき、北角さんの中ではどういう教育をしてみたいというイメージがあったのでしょうか。
北角 学校という空間を、教師だけではなくもっといろんな人が関与して、いろんな人の力でつくるような形にしたいと。保護者の方や地域の学生のお兄さんやお姉さんとも一緒に何か新しいことができればいいなと思っていました。あとは子どもたちがいろんな刺激を受けながら、自分でクリエイティブに将来を考えていけるような学校にしたいと思っていました。
――この民間人校長の採用試験はどういった科目があったんでしょうか。
北角 論文と面接ですね。確か応募用紙にどういう学校にしたいかを書くことになっていたと思います。面接は教育委員会の人事担当の人とやりました。教育長はいなかったです。
――民間人校長として採用されたあとの流れはどのようなものだったのでしょうか。
北角 いくつか驚くことがありました。例えば制度の話をすると、普通、どんな仕事でも中途で人を採用するときには、結構なすり合わせが行なわれると思うんです。あなたの希望はどういうものですか、あなたが実際にやろうとしていることは何ですか。ここに行ったら、こういう条件になるんですけど、できますかとか、こんなすり合わせをするんじゃないかと思うんですが、ただ採用されただけなんです。
――採用されただけ?
北角 というのは、郵送で採用通知が来るんですが、その後に何の音沙汰もない。それで僕が人事に電話をして、「採用のお手紙をいただいたんですが、一回、お話しできませんか」と伝えて、やっと教育委員会と話ができたんです。そこで「こういうことはできるんでしょうか」という話をすると、現行の制度の説明をされるだけでした。要はわれわれが来たことによって、何か特別なことをするということは想定していなかったんです。
――まずは民間人からの採用ありきということだったのでしょうか。
北角 教育委員会の指導主事の人たちから、「何か困ったことがあったら協力しますので」と言われたんですが、具体的に何かを頼もうとすると、「いや、それはちょっと私の立場では」というような返事で、一応、研修が3カ月ありましたが、ほとんど丸投げでした。適性を見てくれてこの人はこの学校がいいとか、こういうアイデアはどうかとかなく、ただ合格通知が来ただけでした。
――当時の教育委員長だった大森不二雄さんに会われたことはないですか?
北角 選考の前はありません。公募後に校長になってからは、会議などをする場で会いました。
大森不二雄氏は、元文科官僚で橋下市政時代に教育長となり、新自由主義的な競争原理を学校に持ち込んだ人物で、後に大阪市の特別顧問となる。コロナ禍中の2021年に現場の混乱を顧みずにいきなり、市内の全公立小中学校でオンライン授業を行うとメディアを通じて発表した松井一郎大阪市長(当時)に対し、久保敬木川南小学校校長(当時)が提言書を出すと、その提言を捻じ曲げて、制裁を指示するなど、教育現場への異常な介入をしていたことが露見する。(「大阪市立小学校、『現場から市長に向けて声をあげた校長先生』の奮闘~公教育のあるべき姿を問い続ける」参照)
日本外国特派員協会で会見を行う久保敬さん(2024年5月6日)
他の件でも、特別顧問は市教委に直接指示を出せない立場であるにもかかわらず、大森氏が吉村洋文大阪知事(当時)の名前を出して市教委の課長を恫喝していたことが情報公開請求で露見。教育行政の私物化ではないかと筆者は何度も取材依頼をしているが一切、返事が無い。彼はどんな人物であったのか。
北角 大森さんからは、とにかく民間人校長を成功させるんだという強い思いは伝わってきました。
