当時の教育行政の問題点
――バックグラウンドは異なるにせよ、先生方も受け入れる気持ちの中で一緒にやっていけたはずだったし、北角さんの情熱と理想もあった。それが乖離していったのは、経験不足以外に何があったと思われますか。
北角 学校に行政からトップダウンでいろいろな要請が来ていて、現場として困るなというのは、正直、ありました。いくつも文書が下りてくるんですが、その種類によって、本当にアホらしいのがあるんですね。僕も、これはちょっと勘弁してほしいなというものもありました。実態とかけ離れている報告をしなければいけないような書類もあるんですよ。市教委は異常に橋下市長を怖れていて、教員へのアンケートでも橋下批判を書くことはタブーのようになっていました。
――橋下市政の下で当時学校を運営していく中でこれは生徒が気の毒だと思った問題部分はありますか。
北角 給食が導入されたのですが、その食事の質の低さです。生徒にとって給食の時間が明らかに楽しい時間じゃなくなっているんです。毎日、一番初めに食べるのが僕だったので、しんどかったです。もう説明のしようがないから、もっとまともな給食になるように教育委員会に相談します、みたいなことしか言えないわけです。
大阪の公立学校では、橋下氏の主導で式典の「君が代」斉唱時に教職員の口元をチェックするという行為が行われていた。2011年6月には「君が代」起立強制条例が強行され、これは大阪弁護士会が「違憲・違法の疑いが強い」との声明を発表しているが、民間人校長の中原徹氏は卒業式で歌っているかをチェックしメールで報告していた。教育委員会は教職員を監視して結果を報告するように求めた通知文を138校に送っていた。これらは「思想・良心の自由」を侵すものではないかという批判を浴びていた。
――巽中は在日コリアンの生徒も多く、このような教師に対する強制などは、その生徒たちに対しても内心の自由を侵害するのではないかと思われますが、かなり通達はきつく来ていたんでしょうか。
北角 そこに心を痛めている先生というのはやっぱりおられました。ルーツの異なる子たちにみんなが歌うように指導することに、身を切られる思いがすると。特にうちの学校で歌わなかった先生がいるとか、そういうことはなかったのですが、僕がいたときでさえ、やっぱり口元チェックなどをやりたくてやっているわけではないと思っていました。
教育委員会がなぜ行政から、つまりは政治から独立していなければならないのかということはミャンマーの情勢からも考えることができる。教育と政治が一体化した構造は、軍国主義教育を安易に生む原因となる。ミャンマーでは軍政が仕切って、何も考えずに政権に言われたことだけを粛々と行うことを良しとする教育が続いた。だからクーデター後の国軍は平気で市民のことを「ゴキブリ」だの、「蛆虫」だのと言って虐殺している。
先述した松井市長のオンライン宣言などは、市教委に通達すらせずに、行政のトップが突然テレビで発表してその通りに学校が動かされて現場の大きな混乱を招いた。その被害に遭ったのは、生徒であり保護者である。現場のことを考えずに権力を持つ政治家が、正当な手続きも踏まずに支配するのは、おかしいではないかと声を上げたのは久保敬校長一人だった。教育基本法は「教育は不当な支配に服することなく」と謳っているが、現状がこれでは、首長に明日から徴兵制を敷くと宣言されたら、校長たちが生徒たちを差し出す体制がすでにできつつあるのではないか。抗う校長に期待したいが、民間人校長は言うまでもなく政治主導で作られたものである。
――北角さんは校長2年目の7月に信頼失墜行為があったとして懲戒処分を受け、依願退職されています。保護者と信頼関係が築けず、トラブルとなったことが原因だと聞いていますが、これは事実ですか。
北角 はい、それは事実です。僕は自分の至らなかった点について、お詫びもしたいし当時の関係者の方にお会いしたいと思います。
――最後に、民間人校長を辞められたあとに、ミャンマーに向かわれた理由は何だったのでしょうか。
北角 校長を辞任したあと、しばらく仕事をせずぼうっとしていたのですが、やはり自分の仕事は報道であると思いなおしました。若いころに国際報道を目指しながらも国内を担当しているうちに校長に転職してしまったので、今度は海外に出て報道の仕事をしようと思いました。仕事の場を探すため海外を何カ所か旅した中のひとつがミャンマーで、「とてもいい人たちだな」と感じました。その翌年の2015年には総選挙が予定されていて、民主化に向かうのかどうかという分岐点であったので、最大都市のヤンゴンに移住して仕事をすることにしました。結果的に民主化と表現の自由が進んだとても熱気のある時期でしたので、気に入ってそこで仕事を続けている間に2021年のクーデターに遭遇したという経緯です。
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まず100人ありき。教師としての経験の無い人物がいきなり、公立学校のトップとして君臨すれば、当然学校現場でハレーションは起きる。それも踏まえての丁寧な人材登用であったとは話を聞く限り到底思えない。教育者としての経験の無い者がいきなり学校の運営が果たしてできるものなのか。100人の民間人校長が登用されるということは、100人がそのポストを奪われるということを意味する。権力者による教員支配の側面も当然あったであろう。
先述の通り、着任した民間人校長の半数以上が、何等かの問題を起こした。大人たちの政治によってもたらされた大きな混乱と分断の中で最も被害を受けたのは、言うまでもなく、そこで学校生活を送らなくてはならなかった子どもたちである。公式な総括が待たれる。
民間人校長を一年と数カ月で退いた北角さんは、決して愉快ではなかったであろう過去についての質問に対して、すべて名前と顔を出し、誠実に対応してくれた。記者としての矜持であろう。民間人校長の設計から関わり、制度を強烈に押し進めておきながら、現在は一切の取材に応じようとしない大森不二雄元大阪市特別顧問とは対照を成す。北角さんのミャンマー支援の活動に今後も期待したい。
