労働者の募集や採用、昇進、定年などに関し、男女に与えられる機会が「均等」でなくてはならない――「男女雇用機会均等法」(正式名称は「雇用の分野における男女の均等な機会及び待遇の確保等に関する法律」。1985年成立、翌年施行)の規定により、女性の就業形態は劇的に変わった。そこから40余年が経過したいま、男女の働き方はどこまで「均等」になれただろうか。前編では、同法成立の経緯とともに、1980年代の女性の働き方を振り返る。
「うちは女性を採りませんから」
労働の場における男女平等実現のために作られた画期的な法律が、1985年5月に成立した「男女雇用機会均等法」(以下、「均等法」)だ。では均等法前夜、女性たちは働くことにおいて、どのような扱いを受けていたのだろう。
戦後、男女平等を謳う憲法の下、教育過程であまり性差別を感じることなく生きてきた女性たちが、女性というだけで「差別」を受ける現実に、初めて直面するのが就職活動だった。
1984年に労働省(当時。現・厚生労働省)に入省した、「21世紀職業財団」会長の定塚(じょうづか)由美子さんもそうだった。東京大学法学部に在籍し、国家公務員試験でキャリア官僚コースである上級甲種(のちのI種、現在の総合職)に合格した女子学生でありながら、国家公務員への道は、男性とは比べものにならないほど困難を極めた。
「国家公務員は公務員試験に合格するだけじゃなくて、各省庁に面接に行く“省庁まわり”をして省庁に採用されないとなれないんです。その省庁まわりを男子学生と一緒にしたのですが、いくつかの省庁から、『うちは女性を採りませんから』と言われて、初めて差別の壁を感じました」
その年、上級甲種女性を採用したのはわずかな省庁のみ。男性が何百人も採用される中、女性は省庁全体で5人程度だったと定塚さんは記憶する。定塚さんは無事に労働省に採用され、国家公務員として社会人生活をスタートした。労働省は戦後すぐに「婦人少年局」(1984年「婦人局」、1997年に「女性局」に改称)が置かれ、局長は初代から女性が担ってきたため、毎年、1人であっても女性が採用されていたのだ。
それにしても官公庁がこうなのだから、民間企業は推して知るべしだ。
「当時、男女同条件で採用してくれる民間企業はほぼ皆無と言ってよく、同期の女子学生は多くが弁護士になりましたね。唯一、三菱銀行(当時)に男性と同条件の女性採用枠が1つだけあったと記憶しています。その枠に私の大学で同じクラスの友人が採用されました」
入省1年生が見た均等法制定の舞台裏
労働省に入省した定塚さんが配属されたのが、均等法制定のための「男女平等法制化準備室」だった。
「4月1日に配属されましたが、一刻も早く法案を国会に出さないといけない状況で、私は1年生なので、あくまで法案を作る補助作業に従事しました。法律を作るための先例調査や、関係団体の意見を聞きにいくことなどが私の任務でした」
労働組合や女性団体などの会合に出向き、どんな主張をしているのか聞きにいく役目を担う中、定塚さんはそれぞれの立場の生の声に触れることになった。
「当時、法案は最終段階で、かなり努力義務規定が多いものになっていました。そのために労働組合や女性団体からは批判を浴び、経済界からはそもそも法律自体についての反対の声もありました。保守的な論客が『男女雇用平等法は文化の生態系を破壊する』という記事を雑誌に載せていたこともありましたし、男女平等って当たり前のことなのに、それを法律に書くことにこんなに反対があるのかと、信じられない思いでした」
女性団体や労働団体は、条文の多くが使用者側の「努力義務」とされたことに強く反発した。彼らが求めたのは、差別への明確な「禁止」だったからだ。一方の使用者側は法律で差別禁止規定を置くことに反対という立場で、特に昇進・昇格は評価に関わる問題なので法律にはなじまないと主張していた。
大荒れの大海ともいうべき状況下、それでも当時の婦人局長の赤松良子さん、法制化準備室の主査、松原亘子(のぶこ)さんはじめ、関わっていた職員は不退転の思いで臨んでいた。その思いは1年生の定塚さんにも、しっかり伝わるものだった。
「労使双方、いろんな意見がある中で、『とにかく一歩、前に進むためにも、均等法を作るんだ』と皆さんはいつも言っておられました。法律をなんとしても作るんだという、強い思いがありました」

均等法成立への道のり
ここで均等法成立の背景をなぞりたい。日本で均等法が具体性を帯びたのは、男女平等を目指す国際的な動きがあったからだった。
1975年が国際婦人年に定められ、1979年、国連は男女平等を実現するために「女子差別撤廃条約」を採択した。
日本ではこの条約の批准に先立つ1980年、内閣総理大臣が本部長、各省事務次官が構成メンバーという「婦人問題企画推進本部」(後の男女共同参画推進本部)が中心となって、条約批准のために必要な法整備を行うことが確認された。その中で労働省は、条約批准のために欠かせない雇用の分野での男女平等を実現する法整備の責務を負うこととなった。それが、「男女雇用機会均等法」の成立だ。
当時、女性たちの労働環境は今と全く違っていた。多くの女性は結婚・出産を機に、労働市場から退出するのが常だった。男女別定年制もまだ残っており、男女で採用の有無や採用条件が異なるのは当然のことだった。憲法で法の下の平等が謳われているにもかかわらず、女性はこうして差別的扱いを受けた。25歳を過ぎても結婚・退職しない女性は「クリスマスケーキ」、つまり25(日)を過ぎれば、“売れ残り”と揶揄されたように、20代半ばで労働市場から排除される存在だった。
そのような状況下であっても、国際社会の一員である以上、日本も国際的な動きに呼応するしかない。「女子差別撤廃条約」に署名することで、多くの国と伍していく選択を迫られていた。
官民を問わず、女性たちは条約署名を待ち望んだものとして喜んだ。この動きによって男女平等が進められるという雰囲気が強まり、均等法への追い風になったと、定塚さんは見る。
「そのような国際情勢がなければ、均等法はもっとずっと遅れたことでしょう。国が女性差別撤廃条約を批准しなくてはいけないという状況に置かれたことで、日本で男女平等を目指す多くのかたがたが尽力されて、条約を批准するためには法律を作らねばならないんだと働きかけたことで、制定に持っていけたのだと思います」