足枷となっていた「女子保護規定」
女性が働く際の足枷の一つに、労働基準法に明記されている「女子保護規定」(残業の制限、深夜労働の禁止など)があった。
女子差別撤廃条約では、この「女子保護規定」のように一見、女性を優遇するような規定でも差別的効果を持つ場合は、差別に該当すると解釈されていた。
すでに国内では1978年に、母性保護以外の保護規定は女性に対する差別的効果をもたらす可能性もあるということで、解消を図るべきという研究結果が報告されていた。条約批准のためには、労働基準法の改正という法的措置も必要とされた。
「労働基準法改正は、均等法と一つながりの法律として、バランスをとって女子保護規定の一部だけ改正されました。改正前の労働基準法では、女性は1日2時間、1週6時間、年間150時間を超えて残業することができず、深夜業も原則禁止でした。改正により、管理職、専門職については規制を廃止し、その他の女子についても1日の規制を廃止するなどの見直しが行われました」(定塚さん)
「女子保護規定」は1999年には廃止されることになる。現在は妊産婦等を対象とした「母性保護規定」が定められている。
「みにくいアヒルの子」
定塚さんが配属された1984年4月時点では未だ、均等法について審議会で労使双方の合意が得られていなかったが、法案提出ギリギリのタイミングで労使双方が折り合うことができた。
ようやく法案は国家に提出され、1984年7月に衆議院を通過、参議院に送付。1985年5月に「男女雇用機会均等法」が成立、1986年4月に施行となった。
結果としてその法律は、募集・採用・配置・昇進については事業主の「努力義務」、教育訓練や福利厚生は省令の定める範囲での「差別禁止」という、肝心なところはほぼ「努力義務」という曖昧さを残すものとなった。
それゆえか、誕生したばかりの均等法は「みにくいアヒルの子」と呼ばれたという。確かにそうかもしれない。しかし、「そうであっても」と、定塚さんはその意義を語る。
「やはり、法律を作った効果はとても大きかった。法律ができる前はそもそも、雇用の場で男女平等にするという考え自体、定まっていなかったのです。役所でさえ、門戸を閉じていたように、女性差別が当たり前に横行していた中、雇用の場で男女を平等に取り扱うべきという理念や考え方、方向性が、法律によってしっかり定まったことは大きかったと思います」
現に、松原さんは施行後、このような使用者側の考えを聞いたという。
「努力義務規定だといっても、企業は法律を守らないといけない。均等法の要請を守ることで、女性がいかに貴重な戦力なのかを改めて認識した」
定塚さんも徐々に、雇用の場が変わりつつあることを肌で感じた。
「1987年に、今まで女性を採ってこなかった省庁がこぞって1人か2人、“第1号女性キャリア公務員”を採用したのです。民間企業もかなりのところが、少数の総合職というかたちで女性採用枠を設けました。それまでゼロだった男性と同じ道が、1か2になったわけです」
「総合職」は将来の管理職や幹部候補として幅広い業務を経験できる職区分で、均等法によりようやく、女性にも門戸が開かれることになったのだ。多くの女性は「一般職」として従来通りのサポート業務や定型的な業務を担うわけだが、少数ではあっても、男性並みの「働き方」が女性にも許容されるようになったのだ。

施行年、1986年の就活
慶應大学経済学部で財政専門のゼミで学んでいた酒井恵理子さんは、1986年に就活を行った女子学生だ。
「ゼミには6人の女性同期がいて、全員が慶應女子高卒で自宅通学でした。男子は4月か5月には青田買いされるのが当たり前で、就職が決まり、企業から囲い込みをされているという話を聞きながら、女子は誰も決まらなくて、ずっと苦労しました」
酒井さんは、OG訪問で衝撃を受けた。
「商社に就職された先輩を訪問すると、とても綺麗な格好で仕事をされているのですが、仕事の内容が男性の作った資料の英訳とコピー。それがメインだと言われて、結構なショックでした」
酒井さんは「女性が前面に立てる仕事がいい」と、航空会社「全日本空輸(全日空。ANA)」に就職した。
「最終内定が出たのが8月でした。航空会社って、面接が何回もあって。それでも私が女子6人の内定最速で、最後の一人が決まったのが12月でした。男子は5月にはほぼ内定が出ていて、部活動や卒論に集中できていたのに。その時に、『あれ? 男女雇用機会“均等”じゃなかったんだっけ』と、疑問が湧きました」
配属された「スチュワーデス」の部署では、上席こそ男性だったものの、同僚は全員が女性なので、男女の差を感じることなく働くことができた。しかし……。
「私が就職した1987年は、スチュワーデスの定年が30歳でした。30歳を超えて働くなら、地上勤務を選択するしか、道はありませんでした。それがこの年に撤廃されたんです。同じ年にスチュワーデスという名称も、客室乗務員(CA)に変わりました。私は途中で転職しましたが、同期の中には60歳になった今も、CAとして働き続けている人もいます」
1986年はANAが国際線に就航した年でもある。企業自体が国際社会の目や均等法を意識していた可能性が高い。均等法により、職場での男女差別が解消される動きが生まれた好例といえるだろう。
とはいえ、この段階ではまだ、均等法は「みにくいアヒルの子」でもあった。
「みにくいアヒルの子」が、「白鳥」へ
前述したように、成立当初の均等法は規定の多くが事業者の「努力義務」に留まらざるを得なかった。ただし、法制化準備室主査だった松原亘子さんは、2025年秋に行われた均等法成立40周年を記念するシンポジウムで往時を振り返り、次のように発言している。
「『みにくいアヒルの子』と言われても、いずれ白鳥になることを信じて後輩たちへバトンを渡すということだったと思います。」(「DIVERSITY 21」vol.62)
確かにその後、均等法は2度にわたって大きく改正された。1997年の改正では努力義務規定が禁止規定となった。2006年の改正では男女双方の差別が禁止され、間接差別禁止規定が新設された。こうして時の流れを経て、「みにくいアヒルの子」は「白鳥」になった。
定塚さんは均等法成立からの40年、「女性活躍」の経緯をこう見ている。
「大体、3つの期間に分かれると思っています。均等法ができたときは、形式的には男女平等が担保されたものの、働き方は変わらず、十分には進まなかった。これが第1期です。そこから一歩進んだのが、2000年ぐらいから。均等法改正に加え、男女共同参画社会基本法(1999年施行)ができて、女性の地位が向上し、企業の女性採用が本格的に進みはじめたのが第2期です」
定塚さんは均等法の下、総合職として働く女性たちの困難もまた認識していた。
「長時間労働で、働き方や企業風土が変わらない男性社会の中で、女性が少人数でやっていくことは難しく、第1期には総合職の女性はあまり増えませんでした。辞めてしまった方も多いし、企業も本格的に女性を活用する気もなかったわけです。第2期になった頃から、本格的に女性を活用する企業が増えました」
今に通じる第3期は、2015年ぐらいからだと定塚さんは見る。追い風となったのが、「女性活躍推進法」(2015年制定、翌年施行)だった。
「第3期になると、『ダイバーシティー(多様性)こそ、経営戦略だ』と、積極的に女性登用が謳われる時代に変わったのです。女性含めて多様性の下に企業を経営していかないと、企業も日本社会も立ち行かないという認識に至り、女性活用が必要なのだという時代になりました。ここにきてやっと“女性活躍”が進展したかなという思いはあります」
「女性活躍」の裏側で進んでしまった女性の貧困
ただし、ダイバーシティーの経営戦略の下、大企業でスキルを積み、戦力となって経済力を手にした女性がいる一方で、女性労働者の52.4 %が非正規雇用(2024年、国民生活基礎調査)という現実がある。非正規雇用の女性の賃金平均は21万300円で、女性正規雇用(29万4200円)の約71%、男性正規雇用(37万6900円)の約56%(2024年、賃金構造基本統計調査)。

安定雇用や社会保険の保障もなく、彼女たちは貧困と背中合わせに生きざるを得ない。これが、日本の現状なのだ。
後編では、均等法施行から、この現状に至る道のりを見る。
(後編に続く[2026年4月14日公開予定])