日本の風景からトキが消えた
まずは、トキがたどった運命を整理しておこう。明治以前、田んぼや川べりで餌を探すトキの姿は、日本各地でありふれた風景だった。江戸時代までの日本は、狩猟を許されている者は限られ、多くの固有種を含む、豊かな生き物たちが繁栄していた。だが明治以降、狩猟が自由化し、海外で大量消費される毛皮と羽毛の供給地となって、ニホンカワウソ、タンチョウやアホウドリなどが狩られて輸出された。「とき色」と呼ばれるトキの美しい羽も、当時ヨーロッパで大流行していた羽帽子の飾りなどになり、大乱獲の末に急速に数を減らした。1908年、明治政府がトキの狩猟を規制し、保護対象に定めたものの、個体数はすでに激減。大正末期には絶滅したと思われた。しかし、1930年代に能登半島の一部と佐渡島で生き延びていたほんの少数のトキが「再発見」され、保護の機運が高まった。
ようやくつかんだトキの復活への手ごたえ
52年に国はトキを特別天然記念物に指定。佐渡島民が保護活動を開始し、国、新潟県と佐渡市も一体となって、保護増殖事業が動き出した。67年にトキ保護センター(現・佐渡トキ保護センター)が開設され、人工飼育や生息調査などが本格化する。81年には佐渡に残っていた野生の5羽をすべて保護。その後、中国との協力体制の下で、中国産のトキのペアを譲り受けて人工繁殖などの努力が続けられ、日本産の最後の1羽「キン」が2003年に死んだ後も、少しずつ個体数を増やした。ちなみに、日本と中国のトキは鑑定の結果、ミトコンドリアDNAが99.9%以上同一であることが判明している。そして、08年から行われてきた放鳥という野生復帰への試みが、12年に大きな前進を遂げた。これまで、繁殖行動が見られても無精卵だったり抱卵に失敗したりして、その道のりは厳しかった。それが、自然環境下で36年ぶりの孵化、さらに38年ぶりの巣立ち、しかも今季誕生した8羽すべてが、である。試行錯誤を重ねてきた関係者に確かな手ごたえをもたらしたことは言うまでもない。
野生復帰に立ちはだかるいくつかの課題
しかし、トキが本当の意味で野生に帰るためには重要課題が残る。それは次世代以降につながる生息環境の整備である。餌となるドジョウなどの水生生物がくらせる環境づくりや、人が追いかけまわしたりしないルールが必要だ。1950年代後半から日本の自然環境は大きく変化した。大量の農薬が使用され、あぜを壊して大きく区画整備された田や、人工的に固められた河川は、水生昆虫や両生類などの生き物を減らし、トキ絶滅に追い打ちをかけた。
トキが種として安定するために必要な個体数は、最低でも500羽。いずれたくさんのトキが生活し繁殖するために、失われてしまった本来の環境をどうやって取り戻すか。2012年10月3日現在、放鳥トキの生存数は70羽。環境の質を上げなくては、放鳥を続けても受け入れる能力に限界がきてしまうだろう。人の手助けなしに餌を確保することは死活問題であり、夏の餌不足が懸念された8羽の幼鳥が、ドジョウなどをたくましく見つけて生き延びていることに、胸をなでおろしている。
トキの野生復帰事業の一環として、新潟大学のトキ野生復帰プロジェクトでは環境の整備に力を入れた取り組みを行ってきた。たとえば、通常は稲刈りを終えたら干してしまう田に冬も水を張っておくか、昔の田んぼにあった“江”(え)という溝を作って水を残しておけば、水生生物は戻ってくる。同様に、減農薬や放棄水田の整備なども必要だ。地元農家の理解と努力でこれらの取り組みは実践され、トキと共存するための配慮も続いている。トキとの共存を町おこしのシンボルとし、地元にとって有効な資源になっていくことが理想的である。
ほかにも、近親交配のリスクを減らすために中国から新たなトキを導入するなど新しい血を入れること、鳥インフルエンザなどの感染で集団が丸ごとダメージを受けないための生息地の分散やネットワークづくりも課題である。
野生動物の保護に乏しい日本の認識と予算
トキと同様に生息数が激減し、保護されて幸いにも絶滅を免れたものにコウノトリがいる。兵庫県や豊岡市と市民が連携して1955年にコウノトリ保護協賛会を発足し、精力的に保護活動が行われてきた。トキの事業は環境省の所管だが、コウノトリは63年、文化庁の補助事業となって活動は受け継がれていく。99年には野生復帰の拠点施設である兵庫県立コウノトリの郷公園が開園、2005年から放鳥が始まり、放鳥3世も誕生している。トキとともに野生復帰事業の旗頭的な存在だ。トキにしろコウノトリにしろ、野生復帰は膨大な時間とお金のかかるプロジェクトだ。残念ながら日本はまだまだ野生動物の保護や管理への関心が薄く、海外に比べて全般的に予算がとても少ない。12年8月28日、環境省は第4次レッドリストを公表したが、危機に直面しているものが数多くいるにもかかわらず、保護の手がまわらないのが現状だ。
トキを野生復帰させることの意味
一方で、「国の予算を費やしてまで、どうしてトキやコウノトリを野生に戻す必要があるのか」という意見もあるだろう。「トキがいないと困るのか」と問われれば、その答えは「ノー」だ。たとえトキが絶滅しても、人々の生活に影響はない。では、トキの野生復帰(再導入)にはどんな意味があるのか。「生物多様性条約」を聞いたことがあるだろうか。地球上の生物相と自然環境を守ることを目的とした、日本も1993年に批准した国際条約だ。その9条に「脅威にさらされている種を回復し及びその機能を修復するためならびに当該種を適当な条件の下で自然の生息地に再導入するための措置をとること」とある。つまり、トキの野生復帰はこの条約に則った日本が果たすべき義務と言える。ちなみに、保護対象には美しいもの、目立つものが優先される傾向にあり、トキやコウノトリが早期に注目された一因でもあるだろう。
だが、それだけではない。人によって失われてしまった自然環境を再生させること、それは人の環境に対するつぐないだ。そしてトキは、「トキという生物種」としてだけではなく、失われていった生物相の、さらに言えば、日本人の心の中に生きている日本の風土のシンボルとして存在しているのではないだろうか。だからトキの復活は、ことさら心情的に日本の自然の復活と重なる。
人々の努力の下で放たれたトキは佐渡の里に定着しつつあり、再び日本各地の空を舞う日も夢ではないかもしれない。
トキ
コウノトリ目トキ科の鳥。学名nipponia nippon(ニッポニアニッポン)。日本の国鳥。全長約77センチ。顔は赤く、羽は全体的に白色だが、繁殖期は頭部から肩にかけて灰黒色になる。翼の下面は「とき色」と呼ばれるピンク色。水田や湿地に生息し、ドジョウやタニシ、カエルなどを採食する。(イミダス編)
コウノトリ
コウノトリ目コウノトリ科の鳥。学名Ciconia boyciana(キコニアボイキアナ)。特別天然記念物。全長約110センチ。細くて長い足は赤く、羽は全体的に白色だが、風切羽は黒い。水田や湿地に生息し、魚や貝、カエルやネズミなどを食べる。求愛や威嚇をするときは、くちばしをカタカタと鳴らすクラッタリングという特徴的な行動をする。(イミダス編)