70年ぶりの流行か?
70年前のデング熱の流行は、東南アジアの戦地から戻られた人々をきっかけに起こったものでした。しかしその後70年の間でも、実は近年になって、海外で感染し、帰国後に発症する輸入症例が頻繁に確認されています。2000年にわずか18人であった輸入症例は、13年には249人にまで至っています。症状が出なかった人を考えると、実際にはもっと多くの感染者がいたことでしょう。たった1人の感染者をきっかけに160人を超える人々に被害が拡大する恐れがある感染症ですから、今回のような流行は、実は輸入症例が増えてきた最近では、いつ起きてもおかしくなかったのです。
シンガポールの事例
シンガポールは面積が琵琶湖ほどの小さな国ですが、2014年には1万8000人ほどのデング熱患者が報告されています。観光立国であるにもかかわらず、これだけの感染者数は大問題で、政府も強い危機感をもっています。そこでこの国では、700人を超える数の環境省職員が約90チームの蚊監視団を結成し、幼虫の発生源を徹底的にチェックする体制を整えています。また、個人の庭や工事現場などで幼虫の発生が認められた場合は、所有者に高額の罰金を科すことも法律で定められています。
それでも流行が収まらないのは、(1)媒介蚊の幼虫が本当に小さな水たまりでも発生するため、発生源を完全になくすことが非常に困難なこと、(2)熱帯で1年中蚊が発生するため、日本のように冬の到来とともにウイルスがリセットされることがないこと、(3)さらに毎日4万人以上の労働者が隣国マレーシアから出入りしているため、ウイルスの国内侵入を防ぐことが容易ではないことが挙げられます。
世界を脅かす蚊媒介性感染症
デング熱以外にも、蚊が媒介者となる感染症は、ハマダラカの仲間によるマラリア、ネッタイシマカによる黄熱、コガタアカイエカによる日本脳炎、多くの種類の蚊によるウエストナイル熱、アカイエカの仲間によるフィラリア症、ネッタイシマカやヒトスジシマカによるチクングニア熱などが挙げられます。世界で毎年2億人が感染しているとされるマラリアですが、かつては日本でも流行したことがありました。ただし、今後日本でマラアリアが大規模に流行する可能性は低いと、筆者らは考えています。マラリアを媒介するハマダラカの幼虫の生息地は、日本においてはおもに水田ですが、たくさん繁殖するためには牛などの大型の吸血源動物が必要です。近年の日本では、水田と牛舎が近くにあるような環境が激減したため、ハマダラカの数がかなり減ってきているなど、人々がハマダラカに刺される機会が減っているからです。
もう一つの感染症の懸念
デング熱と並んで筆者らが最も警戒しているのは、チクングニア熱です。患者はデング熱に似た症状を示しますが、死に至ることもある感染症です。フランス領の島国レユニオンでは、2005年の流行時、全国民の3分の1にあたる26万人が感染し、200人以上の死者を出しました。感染力が非常に強いうえ、ウイルスは蚊に取り込まれてから最短でわずか2日間で唾液腺(だえきせん)の中に移行・増殖し、他の人へ移すことが可能になります。
さらに最近、チクングニアウイルスの遺伝子が突然変異を起こし、それまで媒介に強く寄与していたネッタイシマカに代わって、ヒトスジシマカの体内で増殖しやすいタイプへと変化しました。四季があり、気候が日本に似ているイタリアやフランスでも国内流行が起こっていることや、日本における輸入症例数が11年以降増え続けていることなどから、いつ国内感染が起こってもおかしくない感染症と言えます。
海外では、現在もなお蚊が媒介する多くの感染症が流行し、人々を苦しめています。しかし、住環境が大きく改善し、以前ほど蚊に刺される機会が減った日本においても、ヒトスジシマカは例外です。私たち一人ひとりが意識してこれらの発生源を減らすことで、流行が起きにくい環境を整えることが重要だと思います。
昨14年は首都圏を中心に流行しましたが、デング熱やチクングニア熱が本州以南のどこで起こってもおかしくない感染症であることを理解していただき、日頃からその存在に目を向けていただけたらと思います。
マラリア(malaria)
熱帯・亜熱帯における代表的な感染症で、マラリア原虫によって引き起こされる。発熱、倦怠感、関節痛、嘔吐(おうと)、下痢などの症状をともない、死に至ることもある。ハマダラカの唾液腺(だえきせん)には、マラリアの原因となるマラリア原虫の「胞子」が集まっており、ヒトを吸血するときに注入する唾液と一緒にこれが体内に侵入。肝細胞で増殖したうえで、血液中に放出されることによって発病する。
黄熱(yellow fever)
アフリカや南アメリカなどの熱帯・亜熱帯地域に分布するウイルス感染症。潜伏期は3~6日で、軽症であれば発熱、頭痛、嘔吐(おうと)などをともなうものの、数日で回復する。重症になると、さらに目眩(めまい)や高熱、脈拍数の低下、黄疸(おうだん)、下血などをともない、致死率は20%に及ぶ。サル日本脳炎と同種のフラビウイルス属のウイルスによるもので、このウイルスはサルとヒトを宿主とし、ネッタイシマカによってランダムに媒介され、感染が広がる。
日本脳炎(Japanese encephalitis)
東南アジアや南アジアを中心に分布するウイルス感染症で、時に重篤な急性脳炎を引き起こす。潜伏期は6~16日で、高熱、頭痛、嘔吐(おうと)、目眩(めまい)などに続き、意識障害や筋肉の硬直、麻痺やけいれんなどをともなう。脳炎を起こした場合の致死率は20~40%にも及ぶ。黄熱と同じく、フラビウイルス属のウイルスによるもので、ブタなどの家畜に感染することでウイルスが増殖し、それを吸血したコガタアカイエカに刺されることでヒトに感染する。
ウエストナイル熱(West Nile fever)
アフリカ、ヨーロッパ、中東、中央アジアなど、広範囲に分布する、ウイルス感染症。名前は、ウガンダのウエストナイル地方で最初の患者が見つかったことにちなむ。潜伏期は3~15日で、発熱、頭痛、背中の痛み、筋肉痛などをともない、約1%の患者がまひや昏睡、けいれんなどの髄膜炎や脳炎を発症する重篤な症状を見せる。このウイルスに感染した鳥からの吸血時にアカイエカなどが感染し、その蚊に刺されることでヒトが感染する。
チクングニア熱(Chikungunya fever)
西アフリカ、中央アフリカ、南アフリカ、東南アジアなどに分布する、ウイルス感染症。潜伏期は3~7日程度で、発熱、関節痛、発疹、倦怠感をともなう。頭痛や筋肉痛も見られるほか、関節痛は症状が回復してからも長期間継続することがある。チクングニアウイルスに感染しているヒトから吸血することでヒトスジシマカやネッタイシマカがウイルスに感染し、その蚊がさらに他のヒトを刺すことで感染が広がっていく。
フィラリア症(filariasis)
東南アジアやアフリカ、南アメリカなどを中心に熱帯・亜熱帯に分布する「フィラリア」という糸状の寄生蠕虫(ぜんちゅう)による感染症。リンパ系に寄生したフィラリアによって、リンパ液の流れに異常をきたして発熱を繰り返し、おもに足に「リンパ浮腫」が起こり、強い痛みをともない外観を損なう「像皮病」へ進む。子どものときに感染して、成人後になって発症することが多い。おもにアカイエカの仲間によって、ヒト~蚊~ヒトの感染サイクルで感染が広がる。
デング熱(dengue fever)
中央アメリカ、南アメリカ、東南アジア、南アジア、アフリカ、オーストラリアなどの熱帯・亜熱帯地域に分布するウイルス感染症。ネッタイシマカとヒトスジシマカによって、ヒト~蚊~ヒトの感染サイクルで感染が広がる。
通常は、感染から3~7日後に発熱や頭痛、眼窩(がんか)痛、筋肉痛などをともなうが、1週間ほどで回復する。しかし、一部の患者においては、平熱に戻りかけたとき突然に血漿(けっしょう)の漏出や、鼻血、吐血、下血などをともなう「デング出血熱」に進行。さらに進行すると、ショック症状を示す致死性の「デングショック症候群」に発展する。