マゴットセラピーと呼ばれるこの治療法は、日本ではまだ保険適用されておらず、一部の病院のみでの保険外診療にとどまっているのが現状です。
被災地での隠れた大活躍
有機物の分解者としてのハエの役割も重要です。2011年の東日本大震災の際に起こった大津波では、沿岸にあった水産加工場や冷凍施設から大量の魚介類が流出・散乱しました。気温の上昇とともにそれらが腐敗し、強烈な臭いが地域全体を覆い尽くしましたが、4月下旬ごろにはオオクロバエやケブカクロバエが、5月中旬以降にはクロキンバエが大発生し、幼虫がこれらの有機物をものすごいスピードで消化していきました。それと同時に無数のハエ成虫が発生し、この地域の住宅や避難所で生活する方々に多大なストレスを与えました。筆者らは衛生害虫の調査のために、この年何度か東北地方を訪れました。そして、ハエがもつ分解者としての偉大な能力と、不快害虫としての負の部分、これらの両側面に直面することになりました。果たして彼らを、殺虫剤を用いて積極的に駆除すべきかどうなのか、私たちが最もハエとの距離感に悩んだ瞬間でもありました。
幸い、被災地域では人間が出す汚物の処理が適切になされ、赤痢やコレラといった感染症が流行する要因もなかったことから、積極的にはハエの防除は行われませんでした。この判断が正しかったのかどうか、今でも考えることがありますが、結果として、その後幼虫たちの働きによって有機物の分解は急速に進みました。さらに、餌の減少とともにハエの発生も少なくなり、同年秋には腐敗臭の問題もハエの問題も終息しました。
影ながら私たちの助けになっている
実は、ハエの有機物分解能力に着目した事業がすでに展開されています。畜舎から出た排泄物(糞)をイエバエの幼虫に分解させ、その分解物を作物の肥料として用いたり、大量に得られる終齢幼虫や蛹を再度家畜の餌として用いることで、効率的にエネルギーを再利用しようというものです。ズーコンポスト(Zoo compost)と呼ばれるこの仕組みは、微生物を用いた発酵処理とは異なり、二酸化炭素の排出量が少ないことや、排泄物の分解速度が速いことなどから、新たな農業の形態として注目されています。さらに、時にハエは殺人事件を解決することさえあります。被害者の体で発育したニクバエやキンバエの幼虫の種類、齢期や数から死亡日時や殺害場所などを推定できることがあり、それが容疑者を絞り込んだり、アリバイを否定することにつながる場合があるのです。アメリカでは法医昆虫学として一分野を確立しています。
その他、最近ではハエを受粉昆虫として利用しようとする動きもあります。世界的に数が減少し農業への影響が心配されているミツバチですが、これに代わり、無菌培養したヒロズキンバエをマンゴーやイチゴの農場に放ち、受粉を手助けする研究が行われ、成果が上がりつつあります。
実験動物として人間に貢献
ハエはまた、実験動物として私たちに多大なる貢献をしています。小型で飼育が容易であり、世代交代が早く、さまざまな突然変異体のストックがあるショウジョウバエは特にモデル生物として重要な実験動物であり、この昆虫の研究から歴史的にも重要な発見が数多くされてきました。2011年にノーベル生理学・医学賞を受賞されたフランスのホフマン博士の研究は、ショウジョウバエの実験動物としてのメリットを生かして、昆虫の新たな免疫機構を発見したものでした。後にこの機構がヒトをはじめとする哺乳動物にも共通に備わっていることが明らかとなり、受賞につながりました。
ホフマン博士の研究はショウジョウバエを用いた抗カビたんぱく質の研究に端を発したものです。腐敗した環境を好む別のハエを用いた研究では、抗生物質に耐性を獲得した細菌に対しても効果が期待される抗菌たんぱく質の存在も明らかになり、医薬品としての実用化に向けた研究が進められています。
どう付き合っていけばいいのか
ゴミの収集・処分方法が改善されて住環境の衛生状態が格段に向上し、散歩中のペットの糞に対するマナーも浸透してきている最近の日本。ハエは以前ほど身近な存在ではなくなってきました。それでも、窓を開けっ放しにすれば、彼らは今でも結構な確率で家の中に入ってきますし、先の震災のように有機物が散乱する状況になれば、たちまち大発生する状況となりえるでしょう。しかし、時として恐ろしい病気を媒介するハエも、一方では逆に人の命を救ったり、重大な事件を解決したり、さらには今後の医学界発展のための貴重な実験材料になっているのです。この小さな昆虫がもたらす大きな貢献に少し思いを巡らせながら、彼らとの距離感を上手に保っていきたいものです。
睡眠病
アフリカの西部や中央部でみられる、トリパノソーマと呼ばれる原虫を吸血性のツェツェバエが媒介することによって引き起こされる風土病。感染すると睡眠周期が乱れたり、最悪の場合は昏睡状態に陥り、死に至ることがある。
ポリオ
口から入ったポリオウイルスが、腸内で増えることによって発症する感染症。多くの場合、特別に症状を示すこともなく、免疫によって完治することになるが、まれに脊髄に侵入して深刻な麻痺(まひ)をもたらすことがある。成人に比べ、乳幼児の発症が多い。