日本のあり方に発想の転換を
前述した第三の問題点、研究の現場の後者の問題としては、人材不足の側面もあります。これは人口問題とも関係します。研究に携わる人数が減っているので、論文数も論文の引用件数も当然ながら減っている。一方で中国を筆頭に他国の論文数および引用件数が急増しているので、総体的に見て日本のインパクトは大きく減っています。
ただ、引用件数のみに着目して研究の質を決める方法は、すでにあまり客観的な手段ではなくなりつつあります。仲間内でさかんに引用し合って引用件数を安易に増やす悪例も蔓延しているからです。とはいえ、現状では論文件数と引用件数は重要なファクターでしょう。日本の研究者数が減って、論文による研究力評価の数値も落ちています。
ならばどうすればいいか。解決策は簡単で、海外から多くの研究者を招き入れればいいのです。研究員の半分くらいは外国人という状況になってもいいと思います。そういった環境によって刺激し合うことで、発想の多様性も生まれます。もちろん、日本の研究者も海外へと積極的に出て行ったほうがいいのです。
日本は今後、これまでの実績を活かして世界の中で研究の「場」を作る役割を担うべきです。いくら経済が衰退していると言っても、横ばいで伸びていないということで、まだまだ経済大国であることには違いなく、研究上の経験や実績もあり、研究機関や実験施設、装置を作る力はあります。そこにどんどん海外から人材を呼び込むのです。
2017年のノーベル物理学賞を受賞した重力波の研究では、受賞者のレイナー・ワイス、バリー・バリッシュ、キップ・ソーンは全員アメリカ人ですが、論文に名を連ねる研究に関わった人数は1000名以上で、アメリカ人は全体の4分の1に過ぎません。しかし、研究機関はアメリカが設置したものだから、ノーベル賞はアメリカのものになるわけです。「日本の科学が凋落する」とやみくもに不安がる前に、日本も実績のある領域でこういった方法を採ればよいのです。つまり、研究の「胴元」になる。そして、研究員の国籍は問わない、と。
国民の意識も変わらなければ
ここでもう少しノーベル賞の話をしましょう。日本で「科学」への興味が高まるのは、年に一度のノーベル賞発表の時期です。毎年、日本が受賞するかどうかにだけ関心が集まり、賞が獲れれば万歳、獲れなければ「日本の科学の凋落では」と不安がる。この状況がそもそもおかしいのです。ノーベル賞に関心を持つ意義は、現代社会や実生活に寄り添った研究への評価であり、毎年の受賞傾向を追っていれば世界の科学の潮流を理解できるという教養的な側面もそこにあって、賞の獲得レースではありません。にもかかわらず、現在の日本における報道のされ方は、「日本がいくつ賞を獲るか」に焦点が置かれすぎ、科学の中身への関心ではなく、ナショナリズム高揚のツールになってしまっているように危惧します。
先に述べたように、海外から研究者を多く受け入れて、研究の場に国際性と多様性を促すことが日本における基礎研究の再興につながります。このような発想になかなかならないのも、ナショナリスティックな感覚が邪魔しているからではないでしょうか。たとえば、中国の科学研究の発展に言及する日本のメディアが少ない事実からも、ナショナリズムを感じます。
中国は現在、次々にブレークスルーの実験を行い、基礎科学でも素晴らしい実績を挙げています。国際的な科学雑誌『Nature』も『Science』も中国のこうした話題をよく取り上げるのに、日本ではなぜかほとんど話題にしない。追い越していく隣国の成長を直視したくないのかもしれません。その反面、飛ぶ鳥を落とす勢いの中国と比較して、自国が「凋落する」と憂いているようにさえ見えます。しかし、中国は人口も国土も日本の10倍という規模なのだから、日本を追い越して成長するのは当たり前ですし、今後もそれは変わりません。日本はナショナリズム的感傷に浸るのではなく、海外の研究者を巻き込んで研究の場を活性化させる方法を考えなければなりません。
数学教育からの見直しを
最後に、研究制度とかの問題ではなく、将来を見据えた日本の学校教育の改革について述べたいと思います。学校での数学の教育についてです。日本では「数学は清貧の尊い学問」というイメージが強い。そして、算数という教科も数学という学問の入門みたいに思っている人がいますが、欧米では数学はむしろ金儲けの学問なのです。統計学、社会、経済の数学が幅を利かせています。数学と聞くと純粋数学を思い浮かべてしまう日本とは対照的です。
今後は日本も欧米のような数学にイメージを変えることが必要です。つまり、数学が応用されている大きくて力強い実学実業の世界があり、その周辺に純粋数学が基礎を支えるものとして引っ付いているというイメージです。この方向へと日本も転換したほうがいいと思います。数学というのは自然現象だけでなく、社会現象をも記述できるものです。これまでの日本での数学教育は、文系理系で分けるので、前者の自然科学の基礎みたいなイメージがありました。今後は社会現象を数式で書くような訓練をする必要があるのです。
具体的には、たとえば高校の段階で統計やデータを生徒たちに与え、そこから法則的な傾向を見出すような勉強に変えていく。最初からコンピューターを触るのが21世紀の数学です。デジタルデータが先にあって、すでに完成されたソフトを使ってまず計算をしてみる。なぜ、グラフがそのような描かれ方になるのか、なぜその数式がそうなるのかは体験した後から考える。「体験してから思考する」のが、これからの多くの人間にとっての数学のあり方ではないでしょうか。もちろん、そうではない純粋数学の領域はありますが、それは大きな数学の世界から見れば特殊な部分であり、その特殊さで数学が社会に持つ意義が覆い隠されるべきではないと思います。数理機器の普及でさまざまな生活の側面に数学が入り込んでいく新しい時代が始まろうとしているからです。
昔ならば、毎日空を見上げて天体の動きを観察して自然科学に目覚めることもあったでしょうが、今は、夜空は明るすぎて星など見えません。その代わりに、高度な数理や測定の機器が身の回りにあります。社会が変わるのに応じて、数学への目覚め方はもちろん、教育の方法も変わってしかるべきなのです。
数学教育から変えていくことで、日本がこれまで抱えてきた弱点を乗り越えることができるかもしれません。冒頭に述べたように、日本はモノづくりに特化するあまり情報産業の発展に乗り遅れましたが、これも社会現象を記述する数学のセンスが欠けていたからです。
現在、AI産業が注目されていますが、この分野でもそういったセンスが必要です。スマホのような情報機器をみんなが携帯する時代になりつつあります。そこでは社会の動向から人間の不可解な行動までの世の中とコンピュータの作動を結びつける数理科学が必要となるのです。数式に乗るデジタル情報に変換しないと、スマホというコンピューターは作動しないからです。
結論として、日本の科学はまだ「凋落」はしていません。そのような印象をもつに至っている理由には、情報産業での敗北と、日本経済がかつての勢いをなくしたことへの不安、さらに人口減による大学の衰退、そして研究費の獲得と分配に関する問題、メディアによる報道のあり方などが絡み合っています。人口減は経済にも当然影響を及ぼしますから、「凋落」を感じさせる根本問題はここにあると言えますが、こと「科学」に関して言えば、研究者を海外から受け入れたり、研究費を効率よく分配したりする、また、数学教育を改革したりすることで、主要な問題は解決されます。実績に裏付けられた財産を活かす賢明さが必要でしょう。