話題を呼んだ「バクマン。」の登場
08年に登場した「マンガ家マンガ」の中でも、特に注目を集めたのは「週刊少年ジャンプ」(集英社)の「バクマン。」だ。作者が人気作「DEATH NOTE」のコンビ(大場つぐみ原作・小畑健画)だったこともあり、驚きをもって迎えられた。もともと「マンガ家マンガ」は、マンガ業界ではあまり歓迎されてこなかった。内輪受けや楽屋落ちになりやすく、娯楽作品としては邪道だという意識が強かったからだ。ところが近年そんな空気がすっかり変わり、むしろ「『マンガ家マンガ』にはハズレがない」という意見まで聞かれるようになった。なぜこんな現象が起きているのか。「ジャンプ」の看板作家までもが手を染める「マンガ家マンガ」の流行とは、一体どんな事態なのか。マンガ家マンガの歴史背景
振り返ってみると、1970年代までは「マンガ家マンガ」が特別な人気を集めることはほとんどなかった。自伝やエッセイ、つげ義春の一部作品や永島慎二の「漫画家残酷物語」のような私小説的な作品などが地味に発表されるだけだった。80年代になって流れが大きく変わったのは、藤子不二雄(藤子不二雄A)「まんが道」のヒットがきっかけだった。この作品は86年と87年にNHKでテレビドラマ化されて注目を浴び、トキワ荘ブームの大きな要因となった。これ以後「マンガ家マンガ」は単なる「内輪ネタ」から「エンターテインメント」へと変貌(へんぼう)しはじめる。多くの人が気がつきはじめたのだ――「マンガ業界」は実はビルドゥングス・ロマン(成長物語)の舞台であり、「マンガ家」は単なる作者たちの肖像ではなく「キャラクター」であり、非常にドラマチックな世界であることに。
パロディーからシリアスへ
89年「サルでも描けるまんが教室(サルまん)」(竹熊健太郎原作・相原コージ画)、90年「燃えよペン」(島本和彦)などがそのようなコンセプトを生かし、現在にいたる大きな流れを作り出したといえる。特にマンガ家の熱い姿を描く「燃えよペン」は、「吼えろぺン」「新吼えろペン」とシリーズ化され、2008年に「アオイホノオ」に引き継がれて、このジャンルの牽引車の役割を果たしてきた。「サルまん」も、08年には「サルまん2.0」として再登場した。両作とも、現実のマンガ業界をモデルにしながら、徹底的にフィクションとして娯楽作品化してみせる姿勢には、それ以前のエッセイや自伝作品とは一線を画す新しさがあった。この2作の描き方は、とはいえどこかパロディー的であった。ところが「バクマン。」は、この流れを受け継ぎながらも、マンガ業界を成長物語の舞台として、パロディーではなくストレートに描いている。いまやマンガ業界は、スポーツや恋愛や料理などと同じように、少年マンガの舞台として普通のものになったのだ。それほどに「マンガを描くこと」が世間で一般化したということだろう。マンガの教本や学校も増え、アキバブームなどの追い風もあって、もはやマンガは誰でも気軽に手を出せる、ありふれたものになったのだ。「バクマン。」の登場は、このような時代の変化を象徴しているといえるだろう。
あらゆる層へと浸透
その結果、広い分野で「マンガ家マンガ」が急増中だ。たとえば少女マンガを見ると、児童誌「ChuChu」(小学館)のラブコメ「初恋指南」(やぶうち優)の主人公はマンガ家の卵で、レディース誌「FEEL YOUNG」(祥伝社)の「モテかわ★ハピネス」(青木光恵)の主人公はモデルをしながらマンガ家を目指し、マニア誌「花とゆめ」(白泉社)の「今日も明日も。」(絵夢羅)の主人公もマンガ家を目指しながら、マンガ家の彼と急接近、という具合だ。その他、青年誌から4コマ誌にいたるまで、マンガ業界や漫研を舞台にしたものは、枚挙に暇がない。伝記物も、08年にはちばてつやが故・赤塚不二夫らを回想する「トモガキ」(「週刊ヤングマガジン」)を発表する一方で、やまだないとの「BEATITUDE」(「モーニング・ツー」)のように、トキワ荘伝説をボーイズラブ風の表現で描く作品が現れるなど多様化している。
他にも「劇画」の創始者辰巳ヨシヒロの自伝「劇画漂流」(青林工藝舎)や、「1・2の三四郎」で一世を風靡(ふうび)した小林まことが当時を振り返る「青春少年マガジン1978~1983」(講談社)などが刊行され、マンガ業界の歴史が特殊なものではなく、一般的な関心を集める身近なものとなったことを感じさせた。
日常化の果てに
また、世の中のニート気分を反映してか、青野春秋の「俺はまだ本気出してないだけ」(07年~、「月刊IKKI」、小学館)、カラスヤサトシ「おのぼり物語」(「まんがくらぶ」、竹書房)、福満しげゆきの「僕の小規模な生活」(07年~、「モーニング」、講談社)など、将来の展望もないまま、いい年をしてマンガ家なんか目指しているダメな奴、というムードの作品も目立っている。あまりにも一般化した「マンガ家」は、もはやあこがれや夢ではなく、単に身近でリアルな現実を反映する鏡となる。05年吾妻ひでおの「失踪日記」(イースト・プレス)のヒット以来、この新たな私小説的な傾向は強まってきている。ネット時代の今、世の中ではどんどん「ネタ化」が進行中だ。作り込まれた重厚な作品よりも、ゆるいネタが支持を受けることが多い。そんな場では、マンガもエッセイ風の傾向を強め、作者が作中に登場するケースも増えていく。マンガ家・編集者・読者の三者とも「マンガ家マンガ」に抵抗がなくなってきた現在、今後ますます敷居は低くなるだろう。08年は、そのブレイクスルーの年だったといえるのかもしれない。
「まんが道」
初出は藤子不二雄名義だが藤子不二雄Aの作品。1970年「週刊少年チャンピオン」(秋田書店)初出(「あすなろ編」)。マンガ家を目指すふたりの少年満賀道雄(作者がモデル)と才野茂(藤子.F.不二雄がモデル)が、憧(あこが)れの手塚治虫の住む「トキワ荘」で、石森章太郎(当時)や赤塚不二夫、寺田ヒロオらの仲間とめぐり合い、互いに夢を目指して成長していく青春群像劇。その後掲載誌を替えながら、「立志編」「青雲編」などと描き継ぎ、2009年現在も「ビッグコミックオリジナル増刊」(小学館)に「愛…しりそめし頃に…」を連載中。(イミダス編)
トキワ荘
東京都豊島区椎名町(現南長崎)にあったアパート。1953年手塚治虫が住み、出版社や手塚自身が地方の漫画家の卵などを呼び寄せたことから、若きマンガ家たちのたまり場となり、「梁山泊」的な存在となった。手塚のほかに、寺田ヒロオ、藤子不二雄(安孫子素雄、藤本弘)、石森章太郎(当時)、赤塚不二夫、水野英子などが住み、つのだじろうや園山俊二、長谷邦夫などが頻繁に出入りしていた。1982年解体。(イミダス編)
「サルでも描けるまんが教室」
竹熊健太郎原作・相原コージ画。略称「サルまん」。1989~91年「ビッグコミックスピリッツ」(小学館)に連載。作者と同名の主人公2人が、「マンガ界完全制覇」の野望に燃えて、毎回さまざまなジャンルのマンガ創作技法を、パロディーでありながら真剣に分析・解説していく。マンガに対する愛情と鋭い批評がギャグに昇華され、高い評価を得た。後半作中マンガとして「とんち番長」を登場させ、ヒット作の誕生から隆盛、そして零落までの過程をリアルに描いた。(イミダス編)
「燃えよペン」
島本和彦作。1991~94年「シンバット」(竹書房)等に連載。「どこにでもいるありふれた」熱血マンガ家炎尾燃(ほのお もゆる)が、あたかもバトルフィールドのごとく、降りかかるトラブルや締め切り、ライバルマンガ家と戦いながら、アシスタントたちとともに熱くマンガを描いていく。シリーズ最新作の「アオイホノオ」(「週刊ヤングサンデー」など、小学館)は、著者がデビュー以前の大阪芸術大学時代を描く。庵野秀明などの同級生らが実名で登場。(イミダス編)
「失踪日記」
「不条理日記」(「別冊奇想天外」ほか)などの作品で、70年代末頃のニューウェーブと呼ばれる新潮流をリードし、美少女ブームの牽引車ともなった吾妻ひでおは、やがて行き詰まりからアルコール依存症、自殺未遂、失踪などを繰り返した。その顛末(てんまつ)を綴(つづ)ったのが2005年の本作。作者の体験に基づく路上生活や残飯あさり、アルコール依存症の幻覚などがリアルに描かれた。05年第34回漫画家協会賞大賞、06年第10回手塚治虫文化賞マンガ大賞をはじめ数々の賞を受賞し、作者の復活を印象づけた。(イミダス編)