一方アンジェロは、14、15歳になっても、ギャングとして順風満帆で、仲間皆から認められるリーダーだったために、持ち前の腕力と負けん気で、ギャング道を突き進んでいった。
「当時は私たちのほかにも、名の知れたギャング窃盗団がいくつもありました。その中でナンバーワンになることを目指して、様々なグループの犯罪に関わり、私たちよりもずっと年上の連中が仕切る車の窃盗密輸団や、外資系の銀行ばかりを襲う強盗団とも知り合いになりました」
そしてしまいには、殺し屋たちともつき合うように。
「政府が訓練した、この国で一番腕のいい殺し屋や、アメリカ大使館の元警備員だった殺し屋も知っています。実は彼らは今も刑務所にいて、(説教しに)行くといつも顔を合わせます」
そう話すアンジェロの表情は、どこかノスタルジックだった。自分と同じように闇の世界で名を馳せた者たちが現在も塀の向こうにいるという事実、そして自分が彼らに神の教えを説いているという現実が、運命の皮肉を感じさせる。
筋金入りのワルを、恐れも焦りもどこかへ押しのけて完璧に演じ、犯罪を繰り返していたアンジェロ。そんな彼にも、一つ、忘れられない「恐怖」の体験がある。それはある男から車を奪い取ろうとした時のことだ。
「私たちは停車している車の中から獲物に当たりをつけ、そっとその車に近づきました。すると運転席に、一人の男が座っているのが見えました。そこで私とクリスティアンとニキ、それぞれが運転席側、助手席側、後ろと、三方から男に銃を突きつけて、“おとなしく車をよこせ”と脅したのです」
本来なら、相手はここで両手を挙げてビクビクしながら車を出て、入れ替わりに3人がその車に乗り込み、おさらばするはずだった。ところが――
「私たちの声を聞いて、チラリと銃を見た男は怖がる様子もなく、運転席でただ前を向いたまま一言、落ち着いた口調でこう言いました。“私にとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです”」
それは新約聖書に出てくる言葉、「フィリピの信徒への手紙1章21節」だった。筆者のパウロは、キリスト教が迫害されていた時代に投獄され、獄中でこの手紙を書いたとされる。彼は、裁判によって処刑が決まるかも知れないという生死の境にいた時、考えた。どんな困難の中でも生きてこられたのは、自分の内なるキリストが支えてくれたからで、その教えと共に生きてきたからだと。そして仮に死んだとしても、それはキリストと直接つながるということを意味するのだから、むしろ喜ばしいではないかと。
この言葉を口にした男は恐らく、パウロと同じように自分はキリストの愛を感じながら生き、死後はそのキリストのもとへ行けるので、何も恐れることはない、銃を突きつけられても平気だ、と言いたかったのだろう。別段深い信仰心のなかった少年たちは、その言葉に強い衝撃を受ける。
「この男は死を恐れていない。そうわかった時、私のほうが恐れにおののきました」
言葉の真意まではわからなかったアンジェロも、キリストへの信仰があれば、死さえも冷静に受け入れられるということを態度で示す男の姿に、圧倒された。
「だってそうでしょう。こちらはこれだけ武装しているのに、本当は死ぬのが怖くて仕方がない。ところが相手は、丸腰で銃を突きつけられているのに平気な顔をしている。死ぬことなんて怖くないというのです。その時、“武装することでは、死への恐怖から逃れることはできないのだ”という思いが、頭をよぎりました」
ギャング人生を楽しんでいるようにみえたアンジェロも、心の奥では死の恐怖に怯えていたのだろう。元マラスの青年も話していたように、自分の弱さや罪深さを他者への暴力でごまかし、攻撃的な姿勢を保つことで自分の死の可能性を打ち消してきたギャングは、本当は不安で孤独だった。やるかやられるかの日々が自分を死の淵へと追い込んでいる事実を認めたくないがゆえに、武装し安心しようとしていたのかもしれない。
そんなギャング少年たちは、男の信仰心と意思の強さに圧倒され、車を盗むことも忘れて、ただ撤退するしかなかった。絶好の獲物を見逃したのだ。この出来事は、後のアンジェロの人生に大きな意味を持つことになる。
とはいえ、その後も3人組は、とうの昔に「ジュニア」の域を卒業したプロの犯罪者として、ギャング界で活躍し続ける。銃を突きつけられても死を恐れない男の言葉は忘れて、アンジェロはこれまで通り、ギャング仲間の間に名声をとどろかせ、ついに隣人たちも皆、恐れと畏敬の念を込めた目で彼を見るようになる。この頃には彼の母親も、さすがに息子の悪業に気づいていたようだ。が、もはや止めることは不可能だった。
「犯罪行為を続けながらも私は、母や家族のことだけは気にかけていました。私のせいで、危ない目に遭わせたくなかったからです。だから実家を出て、街中のホテルに住むようになりました。それなりのいいホテルです。その一室で暮らしながら、用がある時は仲間の車に乗り込んで出かけ、車で戻る。そんな生活をしていました」
家族を守るだけでなく、なるべく人目につかないようにすることで、自分自身の仕事にも支障が出ないようにしていた。ギャング映画に出てくる大ボスが、ホテルのスイートでくつろいでいるところへ、子分たちが入れ替わり立ち替わりやってきては、仕事の成果や次の段取りを知らせる、といったイメージだ。
「私はすっかり有頂天になっていました。頭がおかしくなっていたのです。自分は神だと思っていました」
そう言い終えると、彼はしばし視線を落とした。牧師として神に仕える者が、かつては自分が神だと勘違いしていたという皮肉。しかし、神ではないギャング少年は、自己の力を誇示しながらも、警察に追われ、安らぎのないめまぐるしい日々を送っていた。この時16歳。普通なら高校に通いながら青春を謳歌している時期に、彼はすでに120件の犯罪で告発される「お尋ね者」と化していた。
(第4話に続く)