その背景には、「松方デフレ」(1882-84年、インフレを抑えようとした財政政策で生じた深刻な不況)を通じて農村から富を吸い上げて進行する近代化があった。イサクは、これが世界的に進行している事態の一環であることを滔天に教えてくれた。故郷の荒廃と欧州の労働者たちの貧困、そして列強の侵略を受けるアジアやアフリカの人々の苦しみは、滔天の脳裏に「世界」の問題として、一体をなすものとして刻まれた。彼がこれに対する回答として「中国革命から世界革命へ」という「大方針」をつかむのは、その2年後のことだ。
孫文と出会い、歴史のただ中へ
その後、彼は中国革命への参画の途を求めて奔走する。彼はその間も、国境を超えた数多くの出会いを重ね、それによって思索を深めていく。朝鮮の改革を目指して日本に亡命中であった政治家・金玉均(きん ぎょくきん 1851-94年)と出会って協力を誓い、タイに渡って最下層の中国人労働者である出稼ぎの苦力(クーリー)たちの心に触れ、当時の日本人が侮っていた中国人がもつパワーに気づく。「この人民(中国人:筆者)は決して軽侮すべき人民に非ず。むしろ英露の強よりも恐るべき人民なるを信ず」(「シャムにおける支那人」)。いずれ日本は中国との経済競争を強いられるだろうとも、滔天は予言している。
そして孫文との出会いが、彼の一生涯を規定する。初対面の滔天に、孫文は中国に共和国を建設し、そこから世界の人道回復に貢献するという理想を語った。「わが国人士中、彼のごときもの果たして幾人かある、誠にこれ東亜の珍宝なり」(『三十三年の夢』)。
それ以降も、様々な出会いがあった。中国の秘密結社の人々。ベトナムの愛国志士。ロシアの亡命革命家。中国人留学生たち。こうして得た知見を通じて、彼は同時代の日本人とは異なる世界認識をさらに深めた。右も左もひたすら欧米を見上げていたこの時代に、彼は20世紀の世界が植民地の解放に向かって進むことを予見したのである。
そもそも少年時代から、彼の中には国境を超えることへの強い憧れがあったようだ。初めて日本を出て中国に渡った21歳のとき、彼は船の上から上海の景色を見つめて涙を流している。そこに自分が憧れた「世界」を見たのだろう。キリスト教時代に学んだ英語を生かして、旅先ではしばしば宣教師や米軍兵士などに議論を吹っかけたりもしている。
滔天は「世界的人間」という理想に導かれて孫文や中国人留学生たちと結び、彼らの運動を支え、ついに1911年の辛亥革命を見るに至った。このとき滔天はやはり、上海の港に翻る革命派の白い旗を見つめて涙を流した。中国が極端な格差のない共和国に生まれ変わり、それに励まされて世界中で「人権の大本」を回復する動きが始まるはずだった。
ところが歴史はすんなりとは進まない。革命後の中国は長い混乱の時代に入っていく。そして、それに乗じて中国への侵略を深めていったのが、滔天の祖国である日本であった。彼は「世界的人間」として、自らの祖国と対峙しなければならなくなる。
実は滔天にとって、中国革命は迂回路を通って日本を変える方策としても考えられていた。中国が変われば、その影響を受けて日本もいい方向に変わるだろうという楽観的な見方をしていたのである。だからこそ彼は、「虚を衝いて実を出すの道」(『宮崎滔天全集』第5巻収録「書簡集」)と称して日本政府や侵略的な勢力をも利用しようとした。これが今でも滔天自身が右翼と誤解される原因だが、彼は中国で革命が成功しさえすれば、すべてが好転すると考えていた。
ところがそうはいかなかった。日本は1915年、新中国に「対華二十一箇条」をつきつける。日本の意図は、満州の支配、さらに中国本土を手に入れることだった。滔天は、こうした流れを変えようと焦ったが、病に冒され、たびたび吐血しては入院を繰り返す体では、できることは少なかった。
今こそ国境を超えた「世界的人間」という理想を
このころから彼は、実践の現場を離れ、日本の行方に警鐘を鳴らす文章を多く書くようになる。「日本人の一部の頭には支那を征服しよう、占領しよう」(「炬燵の中より」)と考える人々がいる。こうした人々は結局は日本を「窮境に立ち至らしめ、孤立無援の悲運に陥らしむることになる」(同)――。
加えて彼は、日本が韓国の独立を奪っている現実にようやく正面から向き合い始めた。それを導いたのが、すでにこの世にない金玉均との、心の中での対話だった。1919年、韓国の独立を求める三一独立運動が勃発すると、滔天はこれを最大限に評価し、朝鮮の独立を認めるべきだと訴える文章を書く。
彼はさらに日本の「亡国」を警告し始める。このまま侵略を深めていけば、最後には日中戦争にとどまらず日米戦争に至るだろう。そうなれば日本は滅亡する――。「世界的人間」であろうとした彼は、1922年12月6日、祖国の行方を憂いながら生涯を閉じた。戒名は「一幻大聚生居士」。
滔天は民族差別を憎み、他国への敵意をあおる類の「忠君愛国家」を憎んだ。亡くなる2年前、彼はこんなことを書いている。「我が生れ故郷を愛する心は、取りも直さず我が熊本を愛する心であり、我が熊本を愛する心は、それが直に我が日本を愛するの心であり、はたまた世界を愛するの心でなければならぬ。ああ! 我が日本を愛して他国を憎めと教ゆる馬鹿者は誰だ?」(「出鱈目日記」1920年8月23日)。
自分の国を愛するということは、本当は他国を憎むことではないはずだ。世界に住む同じ人間たちを愛することにつながっているはずだ――。滔天はそう言いたいのだろう。
インターネットで他国の人々とつながり、飛行機で気軽に外国に出かけることができる現代でも、「他国を憎め」と扇動する人々がいる。異民族の人々と出会い、共に働く機会も多い社会の中で、ヘイトスピーチが公然と行われていたりする。そういう中で、滔天が求めた「世界的人間」という理想は、今も輝きを失っていない。国境の向こうにも、私たちと同じ人間がいる。もしかしたら、まだ見ぬ友だちがいる。日本人である前に人間として考え、感じること――19世紀と20世紀をまたぎ、異国の友と結んで奔走した宮崎滔天の思いを、2017年の私たちはどう受け止めるべきだろうか。