実際にわが国においても、野生のイノシシを原因とするE型肝炎の感染事例が2003年に発生しています。
幻の寄生虫が蘇る
2016年12月、ジビエによる、とても珍しい食中毒事例がありました。国内では35年ぶりとなるトリヒナ(旋毛虫)という寄生虫による食中毒が、茨城県の飲食店で発生したのです。この店で提供されたクマ肉のローストが原因で、実に15人ものお客さんたちが筋肉痛、発疹、発熱といったトリヒナ症に特徴的な症状をうったえました。同店で冷凍保存されていたそのクマ肉からもトリヒナが見つかったのですが、この肉は北海道で捕獲された野生のクマのもので、常連客の一人が現地で個人的に入手して、同店へ持ち込んだといい、市場流通したものではありません。トリヒナ症は、欧米諸国ではブタ肉や馬肉などが原因として発生することがありますが、わが国ではこれまでに家畜が原因となった事例は報告されていません。一方、野生動物の肉を原因とするトリヒナ症はわが国を含めて世界各地で散発的に発生しています。これまでに、北海道に生息する野生のクマだけでなく、キツネやタヌキなどの筋肉から検出されることが報告されています。
個人的に入手したジビエ肉を自己消費して食中毒を起こした場合は、あくまでも自己責任の領域ですが、この事例のように、猟師さんから個人的なレベルで直接仕入れたジビエ肉が提供されたり、生や半生状態のジビエを食することは、とても危険な行為だと言えます。
熱を通せば安全か?
フレンチなどでは、生のシカ肉などをパックに入れて、60℃前後の低い温度で長時間加熱する低温調理法が用いられることがあります。一方、厚生労働省は食肉に対して「中心温度が75℃で1分以上加熱することを推奨していますが、これはO-157に対する死滅条件です。そして、細菌の中で、O-157は特に熱に強いわけではありません。
上記の条件よりももっと厳しく、長時間にわたって肉の中心までしっかりと熱を通せば、料理のバリエーションの自由度や味わいは変わってしまうものの、微生物学的にはほとんどの細菌が死滅します。ところが、食品の危害要因としては微生物などの生物学的危害のみならず、残留農薬などの化学的危害や、異物などの物理的危害も考えておかなければいけません。野生鳥獣の場合、散弾銃で撃たれ、鉛弾のいくつかが命中したとしても、致命傷でなければ彼らは生存し、体内に鉛弾を残したまま回復することがあります。このため、たとえ罠で捕獲された野生鳥獣で、外見上、異常の認められない動物であっても、体内に銃弾やその破片が残留している可能性があり、それらを食したとき、肉自体が鉛に汚染されていることも考えられますので、一部の野生鳥獣肉処理施設では、金属探知機を設置して対策をとっています。
ジビエ推進が生み出した闇
昨今の国を挙げてのジビエ推進は、もともとは野生鳥獣が増えすぎたせいで、自然植生や農作物に膨大な被害が出ていることに端を発しています。
野生鳥獣の捕獲に対しては、国の政策も手伝って、捕獲自体に補助金や奨励金を出したり、食肉施設の充実に経済的な支援をしています。ある野生動物学者は、このような捕獲を促進させる政策が、かえって効果的な野生鳥獣の管理に悪影響を及ぼしている問題を指摘しています。野生鳥獣が増えすぎているといっても、地域的な偏りがあります。野生鳥獣が生息するすべての地域で被害が出ているわけではありません。ところが、実害がないにもかかわらず、狩猟しやすい場所だからということで、奨励金目当ての乱獲がなされていると思われるケースが出てきています。つまり、本当に減らさなければいけない個体群に対して有効なアプローチがなされず、「野生動物の適切な管理」に本末転倒の弊害をもたらすことが起こりはじめているのです。
希少動植物などの自然生態系への影響、農林水産業、生活環境へのさまざまな被害が大変深刻な状況となっている現在、増えすぎた一部の野生鳥獣種の個体数を管理するという前提がジビエの推進につながっている点には、重要な意味があります。あくまで計画的に、必要な地域において、必要な数だけ捕獲し、それを有効に食用利用しようという考えには賛同します。一方で、動物たちの貴重な命を頂戴するときに、できるだけ無駄のないようにしようという発想も重要なことだと思います。
筆者自身は、もともとは疫学研究の一環として、どのような動物にどのような病原体がどの程度あるのかということを明らかにするために研究を行っている立場であり、特段にジビエが好きというわけではありません。ただ、毒性が強いフグの肝を「覚悟のうえで口に入れる人」が存在してきたように、「危険性は承知していても、自己責任でジビエの生・半生肉を食べる人」もいるかもしれません。くれぐれも覚えておいていただきたいのは、ジビエには飼料管理、衛生管理、健康管理ができていない分の不確定なリスクが必ず伴うということです。ジビエの振興のために、安全性の確保を含めて懸命に努力をしている団体もあります。安易に生や半生のジビエを口にして重篤な食中毒にかかってしまうようなことがあれば、「ジビエ=危険」というイメージが広がり、そうした努力さえ台無しにしかねません。筆者はあくまで、適切な衛生管理のもとで生産されたジビエを適切に加熱調理して、おいしくいただくことが重要だと思っています。