とくに大正時代以降、かかる標準が大ぶん―どころではなく、はなはだしく低下したうらみがあつたことは、あらそい得ない事実である」(『横綱伝』)そうで、横綱という最高位への期待とか昇進資格は、当時から無理があり、その認識の上にまた作られた内規ってなんじゃろ? とJAROに聞いてみたくなる感じなのである。
横綱昇進の基準とは?
後に協会理事長になる45代横綱の若乃花(初代)は最初、「品格の欠如」と横審に昇進を反対する意見を出された。その欠如する品格とは、「身体が小さい」「受け身の横綱相撲ではない」「大関・関脇時代のケレン相撲に品格の欠如を感じる」(『横綱の格式』秋場龍一著、主婦と生活社、2008年)と、体格や相撲スタイルにイチャモンを付けたものだった。
品格が大事!とするが、その尺度は不明。品格とは? というのは、人間とは? と同じ永遠の問いかけにすぎないだろう。今では横綱の品格の見本として崇められる双葉山は横綱になってすぐのインタビューで、
記者:これからも一生懸命やるというわけだな
双葉山:やらねば飯が食えん
(昭和12年5月21日付朝日新聞)
と答えている(『一人さみしき双葉山』工藤美代子著、ちくま文庫、1991年)。横綱とは生活の為というこの答え、私は絶賛共感だが、今なら何と言われるだろう?
また50代横綱の佐田の山は「休場して責任を果たせない部分もあったし、そういう自分にイライラしてしまって、一種のウツ状態」に近くなったことを告白し、49代横綱の栃ノ海も「勝てば勝ったで当然。負ければ負けたでいろいろ言われて、そういうことも気になってきます。/だから、ずっとつらかったです」(共に『横綱』武田葉月著、講談社文庫、2017年)と言っている。聞くも涙で、あまり責めてくれるなよ! と母心も起きるってもんじゃないか。
一方で横審の内規に合致しなくても、横綱になった力士もいる。かつて大鵬と共に“柏鵬時代”を築いた47代横綱の柏戸は、直前の優勝がないままに「ライバル2人の横綱対決が見たい」という人気に押されて横綱となった。また60代横綱の双羽黒も千代の富士の一人横綱で、パリ巡業するのは心もとないという理由で、準優勝と、優勝決定戦で敗戦という成績で優勝することがないまま横綱に選ばれた。結局彼は相撲部屋でトラブルがあって失踪、廃業に追い込まれている。また「スイーツ親方」として知られる62代横綱の大乃国も横綱に昇進する3場所前に全勝優勝するも、その後の2場所は準優勝だったが横綱になった。
ちなみに、辞め方にも絶対はない。その大乃国は横綱になってからの1989年9月場所で7勝8敗、引退を申し入れたが、二子山理事長に「若いから初心に帰ってやり直せ」と言われて引退はしなかった。も一つちなみに66代横綱の若乃花(勝お兄ちゃん)も99年9月場所で7勝8敗と負け越しているが、そのときにすぐには引退をしていない。若乃花が引退をしたのはその3場所後。横綱が負け越し=即、引退には必ずしも至らないのだ。
それが平成に入ってからは、横綱になる条件、「大関が直近で2場所連続優勝」が絶対条件と厳しくなった。何せ双羽黒の件が痛手だったのだ。旭富士~日馬富士まではその内規が採用されている。ところが2013(平成25)年、「稀勢の里が綱取りに挑む過程で緩和され、『準優勝に次ぐ優勝』なら昇進もありうるという見解が示されていた」(『歴代横綱71人』ベースボール・マガジン社、2014年)。結果、14年に鶴竜が横綱になり、17年に稀勢の里が横綱になった。
かように横綱の基準とはあやふやで揺れ動き、多分に人気や相撲界の都合などに左右されてきた。なり方も辞め方も品格も、その折々で変わる。私は「まったくもー!」と思いながらも、「しょーがないなー」とも思っている。作家の髙橋秀実は相撲部屋に入って自らまわしを巻いてまで取材した『おすもうさん』(草思社、2010年)で、「相撲とは、日本人の『自然』(spontaneity)なのかもしれない。(中略)人間の意志とは無関係に物事は流れていく、善悪是非とは別にそうなっていくものは仕方がない、というあきらめた姿勢のことである」と一つの結論に行きついている。大相撲とはそういう緩やかで寛容なもの。だからこそ古代から続いているのだと相撲ファンは受け入れるほかないのである。無節操なほどに変節を繰り返したからこそ、生きながらえたのが大相撲だ。
稀勢の里への「進言」と「激励」
だから稀勢の里のこの先がどういう道になろうと、それはそういう流れだと思う。横審の対応も、稀勢の里には横綱昇進からずっとspontaneityそのもので来た。
今年(18年)1月に5場所連続休場をしたときには「本人がやれるんだという判断を持てた時に出てきて頑張ってほしい」(北村正任委員長)、「同情の方が多い。せっかく日本人(横綱)が出てきたんだから」(岡本昭委員、以上「デイリースポーツ」、18年1月30日)と横審はひたすら心配し、稀勢の里が日本人だからと応援した。18年11月場所の序盤で負けが込んで途中休場したときも「本人が頑張ると言っている以上、辞めろとは言わない」「来場所頑張ってほしい」(北村委員長、「スポーツ報知」18年11月26日)と語っていた。心配して応援し続けてきたのが、この1年以上の稀勢の里への横審の「進言」だった。
しかし、九州場所が終わるやいなや横審は成績不振の横綱に対する「激励」を決議した。これはかつてない厳しいもので、これまでいいよ、いいよと甘い顔をしてきたのが、急に突き放すって? 神輿を担がれるように横綱にされ、甘い言葉でなだめられ、いきなりはしごを外される稀勢の里が、私はなんだか不憫に思えてくる。ファンもそれに翻弄されるばかりだ。
横審はしかし、他の2人の横綱へはun-spontaneityな対応をしてきた。
17年鶴竜の休場や成績不振が続いたとき、「ケガは仕方がないといっても、横綱にはケガをなかなかしない体作りが求められている。(中略)これだけ休むのはまずいな、と。」「次、成績が振るわなかった時にどういう意見が出るか」(北村委員長、「デイリースポーツ」17年7月24日)と引退勧告をにおわせる「進言」をしていた。同情や励ましの声はかけられなかったし、せっかくモンゴル人横綱なのだから、とは言われなかった。
また白鵬に対しては、17年12月に日馬富士の問題で開かれたはずの臨時委員会で、突然に北村委員長が(委員会宛てに、あるいは個人宛てに)「相当の量の投書があります。その投書の大部分は、白鵬の取り口についての批判でありました。張り手、かち上げ…(中略)このような取り口は横綱のものとは到底、言えないだろう、美しくない、見たくないという意見でした。このことは横審のメンバーがいろいろな会合などで相撲の話をするときに、ほとんどの人がそう言っている」(「日刊スポーツ」17年12月20日)と「進言」した。「相当量」とは具体的に何通か明らかにされなかったが、白鵬はちょうど40回目の優勝という偉業を成し遂げたばかり。「強さが満たされた状態」だったが、優勝したことへの「進言」は一切なかった。