横綱って何だろう?
横綱相撲とは誰の何を基準にしているのだろう? 45代若乃花へも「横綱相撲ではない」と「進言」をしていた横審である。ちなみに双葉山は「張り手も相撲の手」と明言しているし、39代横綱の前田山は「“張り手旋風”を巻き起こし、勇猛な取り口で評判だった」(『ゴング』増刊『昭和の名力士100人』日本スポーツ出版社、1978年)という。
そうした横審の対応が、「稀勢の里休場を受けて、いまだに『再起』を望む声が強い。それはたった一人の日本人横綱を失えば、今後はモンゴル勢の天下になってしまうという危惧があるからだ。日馬富士がいなくなっても、『モンゴル互助会』は今も機能している」(iRONNA 「稀勢の里休場『モンゴル脅威論』がさらなる悲劇を生む」、18年11月23日)のような、横綱を国籍で区別し、モンゴル互助会といったありもしない特権があるような差別発言を恥ずかしげもなく書く記事を生む下地になっているのではないか? また、それが相撲ファンを分断してしまう現状もあると思う。
横綱って何だろう? 横綱へのインタビューをまとめた『横綱』(前掲)を読んで、私がああ、そうだなと共感したのは廃業した双羽黒の言葉だ。
「横綱っていうのは、人間が持っている根底を自負するものだと思うんです。それが強ければ強いほど、強い横綱であるわけです」
双羽黒は、双葉山と羽黒山という2人の大横綱から付けられたしこ名で、彼は偉大な2人のようにならなければいけないというプレッシャーを受け続け、力士としてのオリジナリティを否定され、結果それによって人間としてのオリジナリティをも否定されたと感じ、自分を見失ったという。横綱とはつまり、自分を貫ける人だ。平成の大横綱白鵬は、様々なプレッシャーや批判を受けながらも自分を貫き勝ち続けている。なるほど、本当だ。
稀勢の里も自分を貫けばいい。だって横綱なんだから。ちなみに横審の内規は「委員会の内規であって、特に相撲協会が定めるところではない」(『相撲大事典』)そうだ。