性的な暴力は、最も弱いところに現れますから、読み始める前までは、動物というのは子どもと同じ「弱い存在」だと私も思っていたわけです。ところが読み進めると、なぜ子どもとの性愛と動物との性愛が同列に論じられるのか、ということが書かれていて、非常に大きな勘違いをしていたということが、わかってくる。
濱野 そうなんです。本書に出てくるズーたちは、愛する動物を性も含めてまるごと受け入れている人たちで、決して動物に対して暴力的な人たちではないんです。彼らは愛する動物と対等な関係であろうと心がけている人たちで、「パートナー」の動物はみんな完璧にケアされていて、むしろ究極の動物愛護とも考えられるのではないかと思います。ところで、田中先生は、読んでいただいて、どのあたりで予想していた内容とは違うのかもしれないと思い始めましたか?
田中 先ほども出てきたミヒャエルに会いに行ったあたりからですね。実際の性行為がどうかではなくて、どういう人なのかという、ミヒャエルという人間が見えてきた。そういうまさにパーソナリティが見えてきたときに、今まで考えてもいなかったような世界に私は出合っているのかもしれない、と思えてきたんです。だから、半分ぐらい読み進んだときには、自分を乗り越えていましたね(笑)。そうして乗り越えると、今まで動物性愛という言葉から想起していたことは、自分自身のなかにあった偏見や差別だったということがわかってくる。
濱野 私も、調査すること自体が自分を乗り越える作業でした。初回の調査が終わって帰るときに、出会ったズーたちに「本当にありがとう。みんなのおかげで私は世界を広げることができました」というメッセージを送ってドイツを去ったのを思い出しました。知らない世界だし、私はズーたちとの間にある程度の距離感を持って会っていたわけですが、彼らは私をまるごと受け止めて話してくれた。私は彼らの世界に連れていってもらったわけですが、そこで試されるのが、自分が本当にその世界に心を開くかどうかということだったんですね。常識を洗い直して、自分のなかに残っている常識を疑って、今までなかったような新しいものを見いだす。おそらく文化人類学の調査というのは、そういうところがあるんだと思いますが、それは常に自分との闘いです。
役割を超えた人間関係
濱野 『精霊と結婚した男』(紀伊國屋書店、1991年)という私の好きな本があるのですが、著者はヴィンセント・クラパンザーノというアメリカの文化人類学者です。ある一人のアラブ系モロッコ人の性愛などについて書いていて、最後に私と同じようにクラパンザーノも号泣する様子を描いているんですね。文化人類学者としては調査対象者と客観的な距離を保たないといけないのに、それが瓦解してしまう。きっとクラパンザーノは、調査の過程でそのモロッコ人のパーソナリティを発見したんだと思います。でも、よく考えたら、それは特別なことではなくて、日常的に人と接するということは、パーソナリティを発見しないと、おそらく正しい関係にはなれないのだと思います。
田中 そうですね。それが普段は、なかなかできていない。とても印象に残ったのが、「ゆっくり過ごす」「ゆっくり見る」「ゆっくり観察する」という言葉です。私たちの都会生活のなかでは、それがまずできていないし、いつも何らかの現実的な目的があって人間関係をつくっていくから、相手を見るのではなく、相手の役割を見るっていうことしかせずに終わってしまうことがとても多い。そういうことにも気づかされました。
濱野 ビジネスの場面などでは、個々人の仕事上の役割に注目しているほうが円滑に進むこともあるとは思います。でも、そういうことを続けていくと、とても味気ないし、人間関係がギスギスしたものにおそらくなっていって、齟齬が起きるんだと思います。
田中 そして、それが暴力につながるんだと思います。暴力は、パーソナリティの発見ができないことや、関係をつくれないというところに生まれやすい。さらにそこへ支配関係が生まれてくると、いくらでも暴力が生まれる。
暴力というのは、物理的な暴力だけじゃなくて、いろいろなかたちがありますよね。例えば言うことを聞かないとマズいかな、というような忖度の背後にあるのも暴力だし、あらゆるところに暴力はある。そして、それにさらされている女性はまだまだものすごく多い。
そういう日本社会にいると、ドイツという、いわば日本と似たような近代的な社会のなかに、ズーというまったく違う世界があるということの驚きがあります。だけど、ズーたちは、人間同士ではなくて、動物を介さないとそういう関係がつくれないというのは、やっぱり社会の問題でもあるんじゃないでしょうか。
濱野 そうですね。ズーたちは、全員ではありませんが、とくに、人間よりも動物との関係性を好む人が多いんです。一部のズーにとっては、人間との関係づくりが難しい。それはおそらく、人間関係のなかで役割を演じている人たちを見抜くのに苦労しているということだと思います。「この人はこういう役割だから今こういう建前で言っていて、それを信じちゃいけない」とか、そういうことを考える作業が彼らにとっては苦労するみたいです。だから、私は自分をどんどんさらしていかないと彼らと本当の話ができなかった。
異類婚物語にみる自然との共生
濱野 ところで、今年の夏に、あるズーたちとドイツの古民家の博物館に行ったのですが、そこで面白いことを発見しました。ドイツの農家では、少なくとも19世紀初頭まで、人間と馬と牛と犬が一つの家のなかで一緒に暮らしていたらしいんです。これは日本でも東北にある「曲り家(まがりや)」という母屋と馬屋が一体となったL字形の伝統的な家屋で暮らした農家にも通じる。馬、牛、犬というのはやはりずっと身近にいたんだなと思いました。その3種の動物たちというのは、人間に対する訴えかけが大きいのかもしれません。
田中 日本の場合は牧畜ではなくて、農作業を一緒にするので馬と牛が多いですね。牧畜をしないということは犬があまり出てこないんです。ところが、『南総里見八犬伝』は犬の話です。中国の『山海経』や『三才図会』には、体が人間で顔が狗の人々の国である「狗国」が紹介されています。その国では女性は人間なのです。『捜神記』のなかには馬の話がありますね。それが日本に伝わってオシラサマの話になります。馬と結婚する娘の話ですよね。中国のそうした異類婚の話は、日本でも物語としてそれほど抵抗感なく受け入れられたんだと思います。とすると、人間が身近にいる哺乳類と本当にパーソナリティを見いだすような付き合いをして生きるというのは、それほどおかしいことではなかったはずだという気がしますね。