田中 「苦しんでいる」というのは、どういうことですか?
濱野 例えば、ねずみと暮らしているザシャという人物は、人間と同じように、ねずみに対しても強く共感しているんです。そうすると、ねずみを駆除するということは、彼にとっては人間を駆除するのと同じようにつらいことなんですね。ただそれは、多くの人にはなかなか理解されない。そもそも人間とねずみを同じレベルで考えるということが理解されないわけです。人間ならば、動物との間に優劣をつけて人間を第一に考えるのが、人間に対する共感性のある優しい人だとされる。でも、もしかしたら、ねずみにもとても共感している人というのは、人に対してもとても優しいという可能性もあるわけですよね。
田中 その「共感とは何か」というのは面白いですね。私は今、石牟礼道子論を書いているのですが、石牟礼道子を読んでいると、その共感というのを強く感じます。彼女が小さい頃から不知火湾の海岸で遊んでいると、いろいろな海のものがいるわけです。そこに漁師たちが大漁で帰ってくると、今度は陸の動物たちがやってくるんですよ。犬や猫だけじゃなくて、たぬきだとかいろいろな動物たちが、魚を食べに来たりする。それで、石牟礼道子はそういう生きものたちと仲がいいんですね。それで最初に猫に水俣病の症状が現れて、猫がどんどん死んでいったときに、これはおかしいということに気づいて、医者のあとをくっついて一軒一軒を訪ねるようになるんです。
そこで私が感じるのは共感性で、『苦海浄土』の文章からもそれが伝わってくるんです。石牟礼道子は、患者さんに共感し、また動物だけでなく木にも共感している。それを見ていると、シャーマンなど、共感性の強い女性の系譜というのがあるのではないかと思います。沖縄でもそういう話はたくさんありますよね。私たちは、その共感性ということを、本当はあるのに無視しているのではないか。共感性を無視する理由というのは、それを認め始めたら社会の秩序がどうなってしまうのか、わからないからですよね。そうやって私たちが自然界との関係を切ってしまったために、そういう自然との共感性が失われているんです。
濱野 今のところは、「第七感」としか言えないのですが、そういう、異種に対する共感というのは確かに存在しているんだと思います。私がズーたちから教えられたことはたくさんあります。他者と対等な関係をつくり、維持することは可能なのか。その他者のなかには、自然ももちろん含まれます。私が今まで気づいていなかった、自然とのひとつのかかわり方がズーたちの生活のなかにはありました。現代に生きる私たちへのズーからの問いかけは多岐にわたります。彼らの生き方には、自然といかに付き合うのかを考えるヒントが散りばめられていると思います。