『鬼滅の刃』という作品がこれほどの人気作となり、未曽有(みぞう)の記録を打ち立てているのはなぜなのか。様々な理由があるでしょうし、それは様々な専門家や評者、読者やファンが今後それぞれの角度から分析していくことだと思います。
私はここで、マンガの『鬼滅の刃』を一読者として正面から読みながら、自分なりにその秘密に迫ってみたいと考えています。ネチネチした進み方になるかもしれません。私が自分なりに言葉にしてみたいのは、『鬼滅の刃』という作品が、この世界の残酷さと理不尽さにいかに向き合っているかということ、自分の中にもひそんでいるかもしれない「鬼」の怖さをごまかしていないこと。にもかかわらず、この作品の主人公たちが人間の日々の努力や勇気の意味を、そして他人に対する強い信頼の心を見失っていないのはなぜかということです。そしてそれらすべてが、きっと若者や小学生たちの心にも届きえている――その意味についてです。
まず、率直な戸惑いについて述べておきます。私は『鬼滅の刃』を「週刊少年ジャンプ」の連載第1回から読んでいたのですが、初期の頃はすぐに打ち切りになるかもしれないなとハラハラしていたこともあり、現在のコミックス、アニメ、映画などの超絶的なヒットについては、いまだにどこか不思議なような、キツネにつままれているような感じが少しします。
それだけではなくて、この王道的ではあるけれども、とてつもなく残酷で陰惨で鬱々とした作品が、大人だけではなく小学生にも人気であるということは、正直、世相として本当に手放しで喜べることなのだろうか、そのことを大人たちは簡単に寿(ことほ)いでよいのだろうか、という戸惑いの気持ちが消えません。
たとえば近年の「週刊少年ジャンプ」で連載されている(た)『鬼滅の刃』、『チェンソーマン』、『呪術廻戦』、『アンデッドアンラック』等々の作品を読んでいますと、これらのいかにも「ジャンプ」らしい王道のバトルマンガの系譜を引き受けてはいるけれども、キャラクターたちのおびただしい死が積み重なり、鬱に鬱のインフレを競い合うようにして、短期で燃え尽きてしまいそうな名作たちが、「少年誌」と銘打った「ジャンプ」に毎週掲載されている世相とは、いったい何なんだろう、という気持ちが正直あったりします。
これらの作品は、人間たちが虚しくあっけなく死んでいくのは自然の法則のように当然なことである――というメッセージを、読者に対してごくごく当たり前の事実であると伝えているかのようです。根本的な諦念があるかのようです。たとえば『鬼滅の刃』は努力の果ての残酷な死を。『呪術廻戦』は悪意を煮詰めた嘲弄的な死を。『チェンソーマン』はチェーンスモーカーが煙草を吸うような軽すぎる死を――そのように、それぞれの作品によって死の意味付けは異なりますけれども、圧倒的にキャラクターたちがあっけなく死に過ぎている、という印象はやはり受けます。
いまどきの若者や小学生たちは、『鬼滅の刃』のような陰鬱な作品をどのように受け止め、どういう感情で読んでいるのでしょうか。
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『鬼滅の刃』は大正時代の日本を舞台とし、人間を喰い殺す鬼たちと、その鬼を滅殺するための鬼殺隊〈きさつたい〉との血みどろの戦いを描いた物語です。
しかしよく考えてみると、人間として鬼殺隊に加わるにせよ、鬼のボスである鬼舞辻無惨〈きぶつじ むざん:「つじ」の字は1点しんにょう〉のもとで鬼になるにせよ、いずれも過酷な日々が待っている、と言わざるをえません。
現代の感覚で言えば、鬼殺隊は、人々を守り正義のために働けるけれども、どんどん人材が燃え尽きていくNPО法人のようなもの(私も障害者介護のNPО法人で働いていた経験があり、もちろん大多数のNPОはそうしたものではないのを知っていますが、現在もそうしたNPОが存在しているのは事実かと思われます)、他方で鬼側は、人間を超えた強さと寿命を与えられるものの、ボスにつねに監視され、ボスの気まぐれでパワハラを受ける「ブラック企業」(この「ブラック企業」という言葉は黒人差別ではないかという議論もありますが、まだ新しい言葉は定着しておらず、諸議論もあるため、ひとまずカッコ付きでこの言葉を用いることにします)。この選択肢しかない、と言えばいいでしょうか。
いずれにしても、読者の前には地獄の道が待っています。しかしもしかしたら、こうした「どの道を選んでもしょせん地獄」という感覚は、現代の若者や子どもたちのリアリティであるのかもしれません。
そう考えてみると、俺は安全に出世して金が欲しいんだ、というまるではるか昔の高度成長期のような仕事観・金銭感覚を持った通称「サイコロステーキ先輩」(蜘蛛鬼の糸によってばらばらにされてしまうため、ネットなどでこうした綽名がついた鬼殺隊隊士)の存在は、あまりにも過酷な『鬼滅の刃』の世界の中では、かえって珍しい価値観の持ち主であって(鬼殺隊になるための最終選抜を生き残っているのだから、剣の腕はかなりのものと思われますが)、読者にとってはちょっと息抜き的に安心させてくれるというか、ネット世界では奇妙なほど人気があるのもむべなるかな、という気もしたりします。
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『鬼滅の刃』第1話を読み直してみましょう。第1話のタイトルはそのままズバリ「残酷」です。
炭を売りに行った主人公の竈門炭治郎〈かまど たんじろう〉が町から帰ってくると、家族は全員鬼に殺され、唯一生き残った妹の禰豆子〈ねずこ:「ね」の字はネ偏〉は鬼になっています。鬼と化した妹に炭治郎は襲われますが、そこを冨岡義勇〈とみおか ぎゆう〉(この時点では名前も正体も不明ですが)という鬼殺隊の剣士に助けられます。しかし義勇は禰豆子を切り殺そうとします。炭治郎は何も分からないまま、必死にそれを止めようとします。
ただ一生懸命働き、つつましく暮らして、自分とその家族だけの幸せを願う、ということ。それはとてもささやかな願いであるように思われます。しかしそれだけではダメなんだ、ということを、『鬼滅の刃』の読者である私たちは、いきなり、はっきりと突きつけられます。
これは『鬼滅の刃』の基本的な世界観であるでしょう。この世界は理不尽で残酷なものであり、家族や身近な人たちとの幸福な関係がいつ壊れるかわからない――「幸せが壊れる時にはいつも血の匂いがする」。
しかも、鬼たちは、必ずしも外から襲ってくるとは限りません。実際『鬼滅の刃』の世界では、家族の中の誰かがいつ鬼になり、「飢餓状態」に陥って私たちのことを殺そうとするか、わからないのです。妹が鬼になる、という設定はそれを暗示してもいます。最愛の家族の誰かが突然鬼になって、その家族を自分の手で殺さざるをえず、その後鬼殺隊に入る、というパターンが多くみられます。現在の現実でいえば、家族が「鬼」になるとは、虐待やDVや離婚などを想起させるかもしれません。
『鬼滅の刃』
吾峠 呼世晴(ごとうげ こよはる)作。『週刊少年ジャンプ』(集英社)に2016年11号から2020年24号まで連載されたマンガ。2019年からテレビアニメ化。2020年10月には劇場アニメ『劇場版「鬼滅の刃」無限列車編』が公開された。
レイドバトル
オンラインゲームにおいて、1体の強敵に対して複数で挑むバトルのこと