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鬼になった禰豆子を殺そうとする義勇に対し、炭治郎は土下座して殺さないでくれ、と嘆願します。それに対し義勇は、驚いたことに、「生殺与奪の権を他人に握らせるな!!」と炭治郎を叱りつけます。家族を殺され、妹は鬼になり、混乱と悲しみのさなかにある少年に対しては、あまりに過酷な言葉に見えます。しかしそれはたんなる叱咤ではなく、じつは激励でもあります。文字通りの叱咤激励です。
義勇からの「生殺与奪の権を他人に握らせるな!!」という言葉は、この世界の残酷さ、理不尽さという「真理」を炭治郎に伝え知らせるための言葉なのですが、上記のような非対称な状況にもかかわらず、それがたんなるハラスメント的な言葉ではないのは、義勇自身が誰よりも鬼の犠牲者の痛みと無力さをわかっているからでしょう。
義勇はさらに「弱者には何の権利も選択肢もない、悉く力で強者にねじ伏せられるのみ」「鬼共がお前の意志や願いを尊重してくれると思うなよ」とたたみかけます。これは容赦のない真実ではあるのですが、こんなこと、普通の学校や家庭ではあまり教えてくれないでしょう。その意味では義勇は「人生の教師」「厳しい教師」(『ジョジョの奇妙な冒険』第4部で、広瀬康一が空条承太郎を指して表現した言葉)なのです。
禰豆子を殺そうとする義勇に対し、炭治郎は「やめてくれ!!」と言い、「もうこれ以上俺から奪うのは」と心の中で叫びます。この第1話の炭治郎の心の叫びもまた、『鬼滅の刃』の世界の基本感覚ではないでしょうか。
たとえば、物語が少し進んで、遊郭編に登場する妓夫太郎〈ぎゅうたろう〉という鬼は、この世界そのものに対して怒りをぶつけます。「やめろやめろやめろ!! 俺から取り立てるな 何も与えなかったくせに取り立てやがるのか 許さねえ!!(中略)でなけりゃ神も仏もみんな殺してやる」と。それはあたかも、現在の状況でいえば、生まれたときから、あるいは大人になる前から税金や各種保険料や学生ローンによってがんじがらめになって、貧困状態の中から抜け出せない若者の叫びのようでもあります。
格差や搾取などという以前に、生まれながらに取り立てられているような人生――。ちなみに炭治郎と禰豆子という兄妹関係は、様々なレベルで、鮮やかなほどに、のちに登場する妓夫太郎とその妹の堕姫〈だき〉という兄妹関係と対比的に描かれています。炭治郎は何度も、自分もまた一歩間違えば鬼になっていたかもしれない、と考えますが、確かに彼ら兄妹は妓夫太郎たちのようになっていたかもしれないのです。すべては紙一重だったのです。
義勇は心の中で炭治郎に「怒れ」と伝えようとします。お前が打ちのめされているのはわかっている、つらいだろう、叫び出したいだろう、と。これは物語を先取りする言い方になってしまうかもしれませんが、おそらくここで義勇が言う「怒れ」とは、目の前の義勇や、家族を殺した鬼に対して怒れ、というのみならず、身近な人間がある日突然鬼になり、無力に殺したり殺されたりしていくこの世界のシステムそのものに対して「怒れ」ということなのでしょう。この理不尽な世界のシステムそのものに抵抗するんだ、と。それが先輩である義勇からの炭治郎少年に対する叱咤激励のメッセージなのではないでしょうか。
ただしここで重要なのは、この日、炭治郎と禰豆子に出会うまでは、義勇自身がそうした世界のシステムに完全に組み込まれていたままだった、ということでしょう。鬼殺隊の最高の地位である「柱」にまでなりましたが、義勇はこの時点ではまだ、鬼から人間に戻るとか、鬼になった家族を助けられるとか、世界のシステムの外に脱出できるという可能性を信じられていませんでした。
それならば、誰も鬼にならずにすむ世界とはどんなものか。誰もが生まれながらに取り立てられることなく、神や仏を呪わずにすむような世界とは。これは私たちの現代社会にとっても、必要な問いかもしれません。重要なのは、私たちもまた様々な意味で「鬼」になりかねない、ということです。では、人間がどうしようもなく鬼になっていくシステムと戦うとはどういうことか。今回、あらためて第1巻を読み直してみて、じつは『鬼滅の刃』の第1話の時点で、すでに、そういうところまで問いはのびていたのだ、と気づきました。
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第2話では、義勇に指示され、炭治郎と禰豆子は、狭霧山の麓の鱗滝左近次〈うろこだき さこんじ〉という老人のところへ向かうことになります。道中、夜の山で炭治郎は(禰豆子以外の)鬼とさっそく初対決することになります。鬼は人を喰うこと、首を切っても太陽の光を浴びないと死なないことなどが判明し、師匠キャラとなる鱗滝さんも登場します
ところで『鬼滅の刃』には、基本的に空気を読まず他人の話をあんまり聴かない人(いわゆる「コミュ障」)が多く登場します。これは我妻善逸〈あがつま ぜんいつ〉が登場したあとにドライブしていくギャグパートだけではなく、他人とのすれ違いや騒々しさ、それがこの世界では当たり前であるかのようで、これもまた素晴らしいと思います。作品全体を通して、空気を読まず、他人の話を聞かなくても別にいいんだよ、というメッセージを伝えてくれているかのようです。
よく読めば、第1話は終始悲痛な印象ですが(作中の印象的な「コミュ障」の一人である義勇さんもまっとうにコミュニケーションしているように見えます)、第2話の冒頭になると、早くも炭治郎が「コミュ障」ぶりを発揮していて、他人の話を全然聞かず、「頭の固い子供だな」と農家のおじさんからツッコミを入れられています。
もう少し先の第8話では、鬼殺隊最終選別で生き残った5人がこの作品の主人公格になるのですけれども、全員が「コミュ障」っぽくて、人の話をあまり聞いていません。今思えば、これはとても『鬼滅の刃』らしくて、おかしみがあります。蝶と戯れていたり、ぶつぶつ俺はすぐ死ぬと呟き続けたり、子どもをいきなり殴ったり、子どもを殴った男の腕をいきなり折ったり……もう一人はすでにその場にすらいないのですから! そして次の第9話では、輪をかけて人の話を聞かない鋼鐵塚〈はがねづか〉さんが登場します。この辺りから、『鬼滅』らしいユーモラスなキャラクターや台詞回しがどんどん増えてきます。
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話を戻しますと、それにしても義勇さんの第1話の「生殺与奪の権を他人に握らせるな!!」といい、鱗滝さんの第3話の「判断が遅い」といい(どちらも『鬼滅』ファンの間では有名な名台詞です)、ほんとうに『鬼滅の刃』の世界の大人たちは、子どもたちに対して過酷だな、と思います。もちろんそれは、優しさゆえの過酷さなのですけれども。
作者・吾峠呼世晴(ごとうげ こよはる)は、この世界は残酷で過酷なものだ、という感覚のもとに作品を描いているように思えます。人気雑誌の初連載の作品で、第3話~第5話がいきなり修行パートであるのは、やっぱり並大抵の胆力じゃできないことだと思います。普通、修行パートは人気がなく、アンケートで上位を取りにくいと言われています。今考えると、信じがたいことです。
修行パートには、次のような台詞があります。どんなに毎日必死に努力し続けてもそれ以上前に進めないことがある。どうすればいいのだろう。それでも「死ぬほど鍛える 結局それ以外にできることないと思うよ」。これもまた、『鬼滅の刃』の基本的な世界観の一つです。ある種の努力主義です。
『鬼滅の刃』
吾峠 呼世晴(ごとうげ こよはる)作。『週刊少年ジャンプ』(集英社)に2016年11号から2020年24号まで連載されたマンガ。2019年からテレビアニメ化。2020年10月には劇場アニメ『劇場版「鬼滅の刃」無限列車編』が公開された。
レイドバトル
オンラインゲームにおいて、1体の強敵に対して複数で挑むバトルのこと