才能や実力が大事なのはもちろんですが、人間の才能や実力には限界があるのであって、どんなときにも努力が必要なんだ、と。
とすると、『鬼滅の刃』型の努力主義は、自己啓発的な自助論や、新自由主義者たちの言う自己責任論や、家父長制度的な男らしさに紐づけられた能力主義(メリトクラシー)等々とおんなじものなのでしょうか、といえば、やはりそれは単純には同一視はできないものと思われます(鱗滝さんに育てられ、すでに殺された錆兎〈さびと〉の「男なら~」というセリフの「男らしさ」規範や、あるいは炭治郎の「長男だから~」という自己啓発的な自己鼓舞に対する批判をネットなどでは時々見かけますが、さすがにそれはどうでしょうか)。
たとえば自己啓発的な思想のロジックでは、一般的に「努力すれば人は必ず勝てる、成功できる」とされます。というのは、「現実的に負けたなら、それは本人の努力が足りなかったから」と見なされるからです。これは自己責任論のトリックでもありますね。「負けたなら、本人の努力が足りなかった」というのは、絶対に外れない予言のようなものです。
しかしこれに対し、『鬼滅の刃』の努力主義は、自己啓発とは真逆であって、むしろ「努力はどれだけしても足りないんだよ」(第7話)ということなのです。人間の努力はつねに足りない。足りないからこそ、にもかかわらず、私たちは努力し続けるしかない。そのときにようやく、私たちは何かに勝てるかもしれない。そのようなものなのです。
錆兎の「どんな苦しみにも黙って耐えろ お前が男なら 男に生まれたなら」「男なら 男に生まれたなら 進む以外の道などない!!」云々というセリフもまた、どう考えても、あの素晴らしい「泣きそうな嬉しそうな安心したような笑顔」のコマ(それはとうてい「男らしい男」の顔ではありません)の前フリであるのに、しばしば台詞だけ切り取って叩かれることがあるのは、やはり解せない、という気がします。
さて、ここまで、『鬼滅の刃』の第1巻を読み直してみました。ごく早い段階から、『鬼滅の刃』を象徴するような世界観、あるいはこの世界のシステムなどがすでに構想されていたことに気づき、読み直してみて驚かされます。
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最後にもう一点付け加えておきます。第1巻の最後の方から第2巻の最初の方、つまり修行パートから最終選別パートの辺りで、ひとまず、『鬼滅の刃』の死生観・宗教観のようなものが示されています。
『鬼滅の刃』の死生観・宗教観では、幽霊が実在しています。修行パートからすでに、狐の面(厄除の面)をつけた錆兎と真菰〈まこも〉という少年少女の幽霊が出てきます。
そして人は死んだら、その「魂」は家族や親しい人たちの元へと還るようです。またその後も作中では度々、生死の境目に陥った人間の意識(?)に親しい死者の魂があらわれて、助けてくれます。これはその道の専門家の人々の解釈を待ちたいのですが、ある種の日本式の仏教+祖霊信仰のような宗教観が前提にあるように思われます。こうした宗教観のようなものが、あまり救いのない『鬼滅の刃』の世界の中では、救いのようなものを与えてくれることにもなります。
それに対し、鬼はどうやら――様々なパターンがあるので一概には言えないのですが――家族や親しかった人の記憶すらも忘れてしまうようなのです。これはきわめて残酷な意味をもちます。そしてそれが人間と鬼の大きな違いとなっています。これらのことは、すでに、第6話~第8話の最終選別パートで描かれているのです。
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炭治郎は、藤襲山の最終選別で通称「手鬼」を倒します。そこで炭治郎は、鬼の中に悲しみの匂いを感じます。鬼は悲しく虚しい生き物であるということ。これは『鬼滅の刃』の重要なテーマになっていきます。
鬼が悲しく虚しいのは、人間だった頃の一番大事な人たちの記憶さえ忘れており、何一つ思い出せないからです。
手鬼は、大好きだった兄ちゃんのことを、鬼になった自分が咬み殺してしまったという事実を覚えていません。それどころか「兄ちゃん」が誰だったかすら、忘れてしまう。炭治郎はそこに鬼という生き物の根本的な悲しみがある、と悲しみの匂いで直観しています。死にゆく鬼の手に炭治郎が手を重ね、最後に、手鬼は兄ちゃんの手の温もりを思い出す。自分の最大の罪を思い出すことが鬼の救済になっていく、という悲しい逆説がここにはあります(それはのちに累〈るい〉や猗窩座〈あかざ〉との対決においても繰り返されるでしょう)。
私は以前、ある若い人から、人生なんてクソゲーで、残機一機でリプレイ不可、ガチャに失敗(親ガチャとか学校ガチャとか)してもリセマラ禁止――という表現で自分の人生を語るのを聞いたことがありますが、思えば、『鬼滅の刃』の上弦の鬼たちとの戦いは、おおむねそんな感じがします。ステージごとに攻略方法が違うレイドバトルだけど、悉くクソゲーである、というか。もしかしたらそれは、やはり、クソゲーとしての現代というリアルを写し取っているのかもしれません。
上記太字部分注:ちなみに、クソゲーとは「クソみたいなゲーム」のことで、そもそもプレイの仕様や難易度が「クソ」なゲームを指します。ゲームはそれを購入したプレイヤーにやりやすいように、あるいはフェアに設定されているべきだが、「人生はクソゲー」とは、この現実はクソゲーのような理不尽な仕様でできている、というような意味合いです。また、ガチャとはスマホ用のソーシャルゲームなどで、アイテムやキャラクターを抽選で取得・購入する仕組みのことで、リセマラ(リセットマラソン)とは、ガチャの結果があまりよくなかった場合、ゲーム自体を何度もリセットやアンインストールして、よい結果を引けるまでやり直す、という行為のことです。
こうした残酷で容赦のない世界、それに対するある種の諦念、しかし諦念を超えようとする努力、情熱、何も与えないのにすべてを取り立てようとする世界への怒り、それらすべてにもかかわらず残り続ける人間に対するぎりぎりの信頼のようなもの。そうした世界観(思想)をその根底に持っていることが『鬼滅の刃』という作品の大きな魅力になり、若い人や子どもたちの心の深いところへも届いているのではないか。
そんなことを考えながら、引き続き、『鬼滅の刃』を熟読していこうと思います。
『鬼滅の刃』
吾峠 呼世晴(ごとうげ こよはる)作。『週刊少年ジャンプ』(集英社)に2016年11号から2020年24号まで連載されたマンガ。2019年からテレビアニメ化。2020年10月には劇場アニメ『劇場版「鬼滅の刃」無限列車編』が公開された。
レイドバトル
オンラインゲームにおいて、1体の強敵に対して複数で挑むバトルのこと