香山 多くは、自分を産んだ親への怒りですよね。その言葉を口にすることで、親から「何おかしなこと言ってるの、あなたはお父さんとお母さんが『欲しい』と願って、やっと生まれた子どもなのよ」と言われたい、という欲求があるようにも思います。「かけがえのなさ」を保証してほしい、「生まれてよかったと思わせてくれよ」ということですね。その期待が満たされないと、一気に出生への怒りに転じる。
森岡 「誰が産めと頼んだ」は「生まれてよかったと思わせてくれ」の裏返しともいえます。対して「生まれてこなければよかった」という嘆きは、それよりももう一段深いところにあるのではないかと思うのです。
そもそも、哲学的な観点から考えるならば、「なぜ私を産んだんだ」「誰が産めと頼んだんだ」という言葉を投げかける相手は親でよいのか、という問題があります。親ができるのは卵子と精子という細胞を結合させて身体を生成することだけであって、実存的に生きている「私」というものは、親に生み出されたわけではありません。「私」がどこから生まれてきたのかというのは、親、あるいは人間という範疇を超えた問題だと思うのです。
香山 たとえばキリスト教などの一神教においては、人は「神の子」ですよね。肉体的には親の子であっても、生まれてきたのは神のご意思、ご計画だということになる。そうすると「なぜ産んだんだ」と恨む相手は神、ということになるのではないでしょうか。
森岡 そうですね。神という存在にリアリティがある世界ならば当然そうなるのでしょう。ところが、神を喪失した近代社会に生きる人には、その対象がなくなってしまっている。それで、代わりに親に恨みを向けているということなのかもしれません。
そう考えると、誰に恨みを向けるのかというのは、もう宗教的な次元の問いになってきますよね。本来はこうした「なぜ私は生まれたのか」といった話は、人間を超えた、宗教が扱ってきた次元を取り込まなくては本質的な議論ができないのだと思います。そこから目をそらして、脱宗教的な次元でのみ語ろうとするのが反出生主義の限界だと思うし、そこの部分はもっと議論されるべきではないでしょうか。
「人のいなくなった地球」を、人間は目撃できない
香山 またベネターは、地球上に存在すべき人間の数は「ゼロ」だと言っていますよね。人間は「産まない」ことを選択し続けることによって絶滅に至るべきだ、と。
環境保護の視点から、同じようなことを主張する人たちがいます。子どもは好きだけど、地球環境がこのまま悪化していくのであれば産みたくないという人もいますし、イギリスの生態学者、ジェームズ・ラヴロックは自身の100歳の誕生日にあわせて刊行した『ノヴァセン』(邦訳はNHK出版、2020年)で、次に来るのはサイボーグが支配する世の中であり、そのときには人間は存在しないと書いています。「人間が早晩いなくなるだろう」「いないほうがいい」という、この発想は反出生主義と重なるものなのでしょうか。
森岡 人間の生と死を理性のコントロール下に置きたいという世界観をとっている点では近いのではないでしょうか。
「人類がいないほうが地球にとって望ましい」というのは、理性による判断ですよね。それを実現することがもっとも望ましいというのは、ある種の理性主義といえると思います。
反出生主義もそうで、「子どもを産まないことが人間にとってもっとも望ましい」という判断は理性がしているわけです。それに「人間のいない社会」は、社会システムやテクノロジーを人間が理性的にコントロールすることで達成されるわけですから、やはり人間の理性による生と死のコントロールなんですよね。
香山 「人が誰もいなくなった後の地球」も、人間が繰り返し想像し、表現してきたものですよね。特に核の危機が高まった冷戦時代には、多くの映画や小説がそれを描いた。人間が誰もいなくなって、静寂が広がって……という情景を想像しているのは人間ですが、実際に人間がいなくなってしまえば、その静けさを味わう人は誰もいないわけですよね。
森岡 そうなんです。だから、これは結局は虚偽の世界に過ぎません。人間がいなくなった世界を想像するという設定そのものが、人間の感性と理性があるからできるわけであって、そこで見える世界というのは、人間中心主義からの脱却のようでいて、実は非常に人間中心的だといえます。
人間がいなくなった世界を想像するというのは、人間が自分たちでつくった箱庭の内部に、さらに「人間がいない世界」をつくって、それを上から覗き込んでいるに過ぎない。そのことは、自覚しておくべきだと思います。
反出生主義、歴史修正主義と「潔癖ラディカリズム」
森岡 こう見てくると、反出生主義が注目を集めているというのは、コアな反出生主義の周りに、ニュアンスが微妙に異なるいろいろな意見が集まってきて、ひとかたまりの団子のようになっているということなのかもしれない、と思います。