香山 そしておそらく、コアな反出生主義よりも、その周りに集まっている「団子」のほうがずっと大きいのではないでしょうか。つまり、反出生主義の「生まれてこないほうがよかった」という主張に対して、その本質を深く考えるというよりも、何となく雰囲気で「ああ、そうだよね、私も生まれてこないほうがよかった」と感じる人たちがたくさんいるということ。これはとても現代的な事象だと思います。
森岡 そこには現代の、痛みのようなものに非常に過敏になっている状況があるように思います。
苦痛も快楽も存在するよりも、両方とも存在しないほうがいいというのがコアな反出生主義ですが、それはつまり、ほんの針のひと突きの痛みがあっただけで人生はすべて意味がないものになってしまうということ。一点でも汚れてはならないという、潔癖主義のような感じですよね。そして、100年、200年というタイムスケールで見た場合に、いわゆる先進国の社会全体がそちらの方向に進んできているのは明らかではないでしょうか。
香山 強迫的な清潔志向のようなことですか。
森岡 そうです。汚れがないこと、清潔であることをよしとして、あらゆる汚れや痛みを排除していく。私はこれを「無痛文明」と呼んでいるのですが、そうして痛みをなくす方向に社会全体が大きく動いているという状況が、先進国を中心にずっと続いてきた。それが、「生まれてこなければよかった」とか「苦しむ存在を生み出すのはぜったいに良くない」という言葉に呼応する人が多くなっている背景の一つになっているような気がします。
針のひと突きのような小さな痛みであっても、経験しなくてはならないのなら生まれないのが一番いい、あるいは子どもには絶対にそんな痛みを与えたくないから産むべきではない。そうした考えに惹き寄せられるのが現代なのかもしれません。これは古代からありますが、現代ではより現代的な姿をとっていると思います。
香山 まったく違う話かもしれませんが、私は「『慰安婦』問題はでっち上げだ」とか「南京大虐殺はなかった」とかの、歴史修正主義的な主張をする人たちの話を聞いているときに同じようなことを感じます。「日本はもう何千年も前から今に至るまで、一点の間違いも起こしたことがない素晴らしい国だ」という、無謬性へのこだわりですね。だから過去の過ちを指摘されると許せなくて、烈火の如く怒りだす。私は、そういう過ちがあっても、「それはそれで認めて、二度とやらないようにしよう」と考えればいいと思うのですが、そうはならないんですね。日本は光り輝く真っ白な国でなければならないというこだわりがすごく強い。
森岡 よく分かります。これはまた別の現象ですが、2020年には11月のアメリカ大統領選をめぐり、トランプとバイデン、両候補を支えるグループが超二極分化したでしょう。白か黒かで、中間はないという感じ。そうしてラディカルな両極に引きずられていくと、行き着く先はやっぱり「こちらが正義であって、正義には一点のシミも付いていてはいけない」という潔癖主義でしかない。だから、どんな小さいものであっても「お前、シミが付いてるじゃないか」と指摘されると、そんなのは幻想だとか間違いだとか、何をやってでも否定しようとするわけです。
コアな反出生主義も「生まれてきたらわずかであっても苦しみはある、だったら生まれてこない、産まないのが一番なんだ」という、いわば潔癖ラディカリズムの表れだといえるかもしれません。
つまり、さまざまな場面で二極分化、ラディカリズムが現れてきて、人々がそれに引っ張られていくというのが、現代的な言論や思考の動き方になっている。反出生主義も、その中で多くの人に注目されることになっているような気がします。