加えて、暴力的な表現に対する世間一般の風潮や業界側の自主規制に率先されるかたちで、そもそもお笑いにおいては暴力的な表現も時代遅れとなりつつある。「痛みを伴うことを笑いの対象とする」こと自体すでに困難なのは、お笑い第七世代の台頭、誰も傷つかない笑いの隆盛が証左となっている。顕著なのは女性芸人の傾向だ。最近では女性芸人の「ブスいじり」や体を張る芸風はほとんど不可能になったように見える。ネタとして自らの容姿で笑いをとっていた女性芸人から一方的に表現手段だけがはく奪されているならば、表現の自由の制限という観点から見ると、心情的には複雑ではないだろうか。
たしかに、暴力的な表現の積極的な破棄がお笑いの世代論的なものを形成しつつあるのは認めざるを得ない。お笑いの業界内部において、実際には上の世代が自らやるべき暴力的な表現の破棄を、自己批判として若い世代が担わされ、若い彼らもまた露出の機会のために甘んじて引き受けているだけなのかもしれない。痛みを伴う笑いを行っていた上の世代の者は、今現在おとなしく取りやめているだけなのかもしれない。一旦暴力的な表現を取りやめる以外に反省を示す行動があるのだろうか。視聴者には思いつくはずもない。
そうして「痛みを伴うことを笑いの対象とする」ことへの取り締まりも、「痛みを伴うことを笑いの対象とする」ような表現も、これから一層困難となるだろう。そもそもお笑いにおいて両方とも困難だったのだ。お笑いを批判するような意見を出す側が流動的なのであって、表現する側もまた他律的なのだから。もしお笑いが一般社会の写し鏡になるのだとしたら、台本の中で描写された社会の様子にではなく、流動性と他律性の相互作用というまさにこの構造に表れるのだ。つまり、一般社会に生きる我々もまた、その都度異なる他人から出される意見に、その場その場で与するようにして生活しているということが、自覚できるだろう。
お笑いと大衆との間にかつて存在した「つながり」
「痛みを伴うことを笑いの対象とするバラエティー」の審議入りを受けて松本人志は、「何でもありになると、実は面白いことってできにくくて。ルールがある程度あって、そのルールのギリギリをわれわれが攻めて面白くしたいなと思うんですけど、前OKやったことが『やっぱりそれもダメ』みたいに後から言われることがあるから、これはどこまでいくのかなとは思いますね」(註2)と語ったという。松本は、お笑い特有の基準の流動性と他律性についてなにか言おうとしているように見える。
流動性と他律性は、まさに大衆とのつながりという点で、いまやすっかりお笑いにとって足かせに転じてしまった。実際にはそれぞれが別人であるのにBPOが一義的に想定した「青少年」に関して出される意見には、もちろん不当ではないものの文脈への配慮や内在的視座が存在しない。だが、「青少年」でない、我々成人はどうだろう。我々成人は、いつまで文脈への配慮や内在的視座の抜けた異議申し立てをして許されるのだろうか。
他律的(人任せ)に、その都度状況依存的に対処し続けても、それが自律性(行動や判断を自力で決定すること)に転じることはない。すなわち他律性のみでは自分自身の行動原理の糧にならないということを、「青少年」ではない我々成人は経験則として知っていることだろう。青少年委員会の審議対象としての「お笑い」からお笑いの「表現」の問題に考える対象を移したときに、自律と他律にまつわる問題意識が出てくる。実際、見た目に暴力的かどうかという点にあまりに固執するのは、どこか他律的だ。「暴力的かどうか」という問いは、多くの場合、取り締まったり管理したりする側が立てるものであって、お笑いを自分の楽しみのために見ている大衆一人一人が率先して立てるはずもないだろうから。
お笑いのゆくえ
一度、お笑いが痛みを伴うかや、お笑いに対する世間からの厳しい風潮を括弧にくくって、お笑いについて一人一人が、文脈を鑑みて内在的に想像してみてもよいのではないかと筆者は思う。
内在的に想像してみよう。お笑いにとって常に大切であり続けていたのは、大衆のリアルな感覚ではないか。漫才の場面設定であれ、いわゆる「あるあるネタ」であれ、大衆からの共感はお笑いにとって欠かせない素材だ。かつて大手を振っていた暴力的な表現も、それぞれの時点で大衆のリアルな感覚と見えない絆を結んでいたのであって(実際にそれで笑いが生じていたのだから)、結果であり方法のひとつでしかない。
もちろん、内在的に正当であっても、それは暴力的な表現を肯定する理由にはなりえない。
だが、次のように想像することも可能だろう。お笑いが暴力的な表現でもって成し遂げたかった目的は、今となっては必ずしも暴力的な表現を必要としないのかもしれない。あるいは、今現在暴力的な表象を用いるお笑いの表現は、かつてとは違った位相にあるのかもしれない。
そもそも、お笑いにおける暴力的な表現が看過されていたのは、悪や権威に対する反抗の表現となっている場合のみだったと言っても過言ではない。今日の大衆のもとではわかりやすい悪や権威のイメージがもはや無効となっており、SNSでのハッシュタグ運動により、大衆は悪や権威を簡単に屈服させられると錯覚している。こうした悪や権威をめぐる不明瞭さや複雑さは、そのままお笑いから暴力的な表現の根拠をはく奪することとなったのであろう。
今現在の社会においてかつてお笑いが反抗する先であった悪や権威の居所が見えなくなったとしても、お笑い芸人はそれぞれ主体的に反抗の表現を引き継いでいる。表現の遺産を引き継ぐことからまた、今日の、もはや姿を変えてしまった悪や権威を探しあてることは可能だろう。
「男性ブランコ」の新しさ
それは、暴力的な表現にまつわるいかなる議論にも引っかからない、「男性ブランコ」という吉本興業所属のお笑い芸人のネタを見ればわかる。
M-1グランプリ2021の三回戦の彼らのネタを見ると、設定は温泉旅館の客と女将という定番のものだが、「癒し」という現象に対するはっきりとした洞察がネタを貫いている。癒しは、これ自体は悪や権威などとは一切なにもかかわらないが、温泉旅館の女将や他にもセラピストのような癒しにかかわる業種の人々には、どこか形式的に過ぎるところや、一方的なところがある。癒しというのは自足の極致なのだから、他者の視線や存在を欠きがちだ。こうした点にこのネタの表現の核がある。