この隠喩は、無意識のものである。『ウルトラマン』の製作者たちが、日米安保条約の支持者で、この同盟関係の意義を子どもたちに教えたくてこのテレビ番組を創った……というわけではない。ただ製作者側にも、また享受した側にも、ウルトラマンに託されるような救世主がいて欲しいという願望があるのだ。手に負えないほど強い敵からの侵略を受けたとき、それを排除して、「われわれ(日本人)」の安全や幸福を保障してくれる救世主、「われわれ」に対して無条件の善意をもった、非常に強い救世主がいて欲しい、と。この願望を、子どもにもわかるテレビ番組を通じて表現したとき、結果として、日米安保条約と相似的な関係が、人類(日本人)とウルトラマンの間に構成されたのだ。だから、『ウルトラマン』は日米安保条約を意識的に再現したものではない。しかし、この作品は、日米安保条約に現れているような日本人の対米依存を支えている無意識の欲望の表現になっている。
そうだとすると、ウルトラマンが人類のために戦ってくれる理由を説得的に提示できていない、ということは由々しき意味をもつ。この事実は、強い救世主を欲していながら、自分たちがその救世主によって保護されるに値するのか、ということに日本人が不安を抱いていることを示しているからだ。
過失運転致死からくる罪の意識が……
ちなみに、実際には、『ウルトラマン』(の第一回)は、ウルトラマンが人類を助ける理由をどう説明しているのか。端緒には、一種の交通事故がある。過失運転致死、といったところであろうか。科特隊のハヤタ隊員が操縦していた宇宙船(小型ビートル)に、ウルトラマンが衝突してしまったのだ。宇宙船は墜落し、ハヤタ隊員は死んでしまった。ウルトラマンは、怪獣ベムラーを追跡している最中だったのだが、自分の不注意からハヤタ隊員を死なせてしまったことに罪の意識を覚え、ハヤタ隊員とひとつの命を共有することに決めた。そのため、ハヤタ隊員がウルトラマンに変身する、という話になったのである。
しかし、この理由は、さまざまな意味で説得力を欠く。まず、ウルトラマンのような救世主に守られたいという切実な願いとの関係で見ると、理由があまりにも偶発的である。もし交通事故を起こさなかったら、ウルトラマンは、地球人を助けなかっただろう。もし別の星の人にぶつかっていたら、ウルトラマンは、そちらの星の救世主になっただろう。要するに、この経緯は、ウルトラマンが「われわれ」を助けてくれる内在的な理由はない、と言っているに等しい。
加えて、小学二年生だった私でさえ納得できなかったのは、次のようなことである。ウルトラマンは、地球人ではない。つまり彼は、宇宙人――『シン・ウルトラマン』で導入された語を使えば「外星人」――である。ということは、ウルトラマンから見ると、われわれ地球人は外星人である。そして、怪獣も、たいてい外星人だ。したがって、もともと、ウルトラマンにとっては、地球人も怪獣も外星人であって、彼には地球人の肩を持つ特段の動機はない。そして、怪獣が地球(東京近辺)に現れたことについて、われわれは怪獣の「侵略」と言うが、むしろ、怪獣は、地球にやってきた難民に近い。怪獣に関してならば、相手の事情をよく聞くこともなく、三分以内に殺してしまうほどに果断にふるまう者が、地球人に対してだけは、過失で死なせてしまったことについて、そんなに深い罪の意識を抱くだろうか。どうして、過失致死の罪に悩む者が、故意の「殺人」を平気で犯すことができるのか。どう考えても不自然である。
こうした問題について、『ウルトラマン』の製作者たちも、ほんとうは自覚していた。救世主の側にわれわれを助ける強い理由はないのだとすれば、そもそも、救世主を頼りにすること自体が問題だ。製作者たちもそう考えるようになったに違いない。その証拠に、『ウルトラマン』の最終回では次のようなことが言われる。地球は人類自身の手で守らなくてはならないと。しかし、シリーズの全体を考えると、このような教訓は、まったく訴える力をもたない。「それまでさんざん助けてくれていたのに、いきなりそんなことを言われても……」という感じである。実際、シリーズの最終回でそんな結論が唱えられても(実はそのあとの『ウルトラセブン』の最終回でも同じ結論が反復される)、次の新シリーズになれば必ず、新たなウルトラ戦士が救世主としてやってくる。日本人の対米依存がいつまでも消えないのと同じように、ウルトラシリーズにおいては、人類のウルトラ戦士への依存は終わらない。
日米安保条約的な関係性の拒否
だから『シン・ウルトラマン』では、ウルトラマンが、人間を助けてくれる説得力のある根拠を示さなくてはならない。さらには、人間はウルトラマンなしでもやっていける、ということを納得させなくてはならない。『シン・ウルトラマン』のストーリーから、製作者たち――監督の樋口真嗣や庵野秀明を含む製作スタッフ――が、こうした課題があることを明確に自覚していたことは明らかだ。では課題はクリアされているのか。課題の克服に(どの程度)成功しているのか。
元の『ウルトラマン』においては、ウルトラマンと人類(日本人)との間の暗黙の合意が、日米安保条約に見立てられる、と述べた。それに対して、『シン・ウルトラマン』は、日米安保条約(的なもの)をはっきりと拒否しようとしている。『ウルトラマン』と日米安保条約との関係は、先に述べたように、意図せざるものである。製作者たちは、日米安保条約を意識していたわけではない。それに対して、『シン・ウルトラマン』における日米安保条約的な関係の否定は、意図されたものである。製作者たちは、日米安保条約を念頭に置き、作品の中にその類比的な対応物を構成し、それを否定してみせる。
『シン・ウルトラマン』の中で、日本政府は二回、外星人との条約を締結しようとする。どちらの条約も、日米安保条約を連想させるものがある。どちらのケースでも、外星人から日本政府へのオファーがあり、日本政府はあっさりとそれを受け入れてしまう。だが、外星人の邪悪な意図を知るウルトラマンによって――ということはウルトラマンと一体化している禍特対班員の神永新二(斎藤工)と彼の仲間によって――、条約は破棄される。
【註1】
佐藤健志『ゴジラとヤマトとぼくらの民主主義』文藝春秋、1992年。
【註2】
この点を、朝日新聞の太田啓之記者が的確に指摘している。朝日新聞Digital、2022年6月10日記事。https://digital.asahi.com/articles/ASQ69439HQ66UCVL019.html?iref=comtop_7_07
【註3】
人類自身が大量破壊兵器だから廃棄すると言っているのに、こんな危険な最終兵器は使用可能なのか、とツッコミを入れたくなるところではある。どこかの国が危険な生物化学兵器を所有しているので、核兵器で全滅させよう、と言っているに等しいわけで、ここには矛盾がある。が、今はこの点は忘れて前に進もう。