だが、神永は、ベーターシステムの基礎原理と高次元領域に関する関係式を記録したUSBメモリを禍特対に託していた。禍特対のメンバー滝明久(有岡大貴)をはじめとする世界中の専門家がオンラインで協力しあい、短時間でこのUSBメモリに書かれていることを解明し、ゼットンを攻略する方法を導き出す。最後に、ウルトラマンが、この方法を実行し、命がけでゼットンを倒す。こうして、人類と地球は救われた。
これで、人類はウルトラマンから自立できたことになるのか。人類は、(ほぼ)自分の手で自分たちを救うことに成功したことになるのか。ウルトラマンからの最後のメッセージはこうである。「ウルトラマンは万能の神ではない。君たちと同じ、命を持つ生命体だ。僕は君たち人類のすべてに期待する」と。これは、オリジナルの『ウルトラマン』の最終回で提起されたことと同じことである。私はあなたたちの救世主ではない、あなたたち人類は自分で自らを守り、救わなくてはならない。
が、『ウルトラマン』の最終回と同様に、『シン・ウルトラマン』のこの言葉も、私たちを納得させるにはほど遠い。確かに、最後は、ウルトラマンひとりではゼットンに勝つことはできず、ゼットンを倒すために人類の協力が必要だった、という話になっているわけだが、逆の真実の方がもっと大きいからだ。つまり、人類だけではゼットンを退けることはできず、むしろ最も難しく肝心なところに関してはウルトラマンのおかげである。それなのに、いきなり、「君たち人類のすべてに期待する(これからは君たちだけでやれ)」と言われても、そんな期待に応えられる根拠がない、と言いたくなる。
今や、ウルトラマンの故郷である光の星も人類に敵対的なので、このウルトラマンが去ったあと、次々と新しいウルトラ戦士がやってくるという状況ではない。つまり『シン・ウルトラマン』の続編には新たなウルトラ戦士が登場することはないはずだ。だから、これからは、人類は自分の力で危機を乗り越えていくしかない状況にはなっている。しかし、ゼットンに勝利するまでの経緯を通じて、人類はウルトラマンなしでもやっていけるということが証明された……とはとうてい言い難い。
だがしかし、ここで、この物語を現実の方に差し戻してみよう。「人類」というのは、日本の隠喩で(も)あった。日本の安全や繁栄や幸福を、日本人だけで達成する必要はない。というか、そんなことは不可能である。日本の安全や繁栄は、他国との協力の中で、他国との相互依存を通じてしか達成されない。とすれば、重要なことは、日本(人類)が、他国(外星人)からの貢献や協力を引き出すことができるのか、日本(人類)は、他国(外星人)と相互の安全と繁栄のための連帯を導くことができるのか、にこそある。
シン・ウルトラマンが人類を助ける理由は……
したがって、最初に提起した究極の疑問に回帰する。こんどのウルトラマン――『シン・ウルトラマン』の方のウルトラマン――は、どうして人類を助けてくれるのか。ウルトラマンはゾーフィとの会話の中で、その理由を説明している。ウルトラマンが最初に地球に到達したとき、幼い子どもの救助にあたっていた神永は、ウルトラマンの衝撃波からその子どもの命を守るために、自分自身の命を犠牲にした。ウルトラマンは、自分の命をも捧げる神永の利他的行動に感心し、神永と命を共有し、人類を助けることに決めたのだ。
これは、過失による交通事故死を理由にするよりもずっとよい。ウルトラマンが人類を救おうとする行動の根底に、偶発的な事故ではなく、人間そのものの性質が置かれているからである。ウルトラマンは、人間という生き物の利他的本性に強い魅力を感じ、人間に尽くそうと決断したのだ。その意味で、人間自身が、ウルトラマンの協力を引き出していることになる。
しかし、やはり考えてしまう。ウルトラマンは、こんなことで、あそこまで自己犠牲的に人類に協力してくれるようになるものなのか。確かに、神永の行為は崇高だ。これ以上に倫理的な行為はない。……と私たちは思う。そう感じるのは、私たちが神永と同じ人類の一員だからだ。人類にとっては、人間の命よりも貴重なものはない。だからこそ、他者の命を救うために自己の命を犠牲にする行為は、最高に倫理的なのだ。
だが、ウルトラマンは外星人であることを忘れてはならない。ウルトラマンの観点からは、神永がやったことは、「ウルトラマンにとっては異種であるところの人類という種の同胞が同胞を助けた行為」である。そのような行為も、それなりに立派なことに見えるだろうが、自分自身もまたその同じ種や共同体の一員であったときほどには、すばらしいことには感じられないものだ。ある人が自分の所属しているグループのために献身的にふるまっているのを、外から見たときにどう感じるかを想像してみよう。その人の忠誠心の高さやグループの結束力の強さに感心することもあるだろう。しかし、だからといって、自分もまたそのグループのために犠牲になろう、とまでは思うまい。同胞が同胞のために尽くしているのを(外から)見ても、それは、ある程度は、当たり前のことに見えてしまうからだ。
少しだけ理論的に説明しよう。あなたはもともと、そのグループGの一員ではなかったとする。もしそのあなたが、あえてGのために、あるいはGのメンバーのために、己を犠牲にしようとするならば、あなたの行動は、Gのメンバーが同じGの他のメンバーのために発揮する利他性よりも、はるかに高いレベルで利他的である。同胞同士の助け合いや献身は、まだ広義の利己性の範囲のことである。同胞同士の助け合いの行動は、同胞の範囲を超えた利他性を引き起こす力はない。
つまり神永の犠牲的な行為は、外星人であるウルトラマンが地球人のために身を捧げる行為ほどには利他的ではない。こう思えば、前者は後者を説明する理由にはなりえない。ウルトラマンがあれほどまでに人類のためにがんばってくれたのは、それは神永の行為に感動したからではない。ウルトラマンはもともとそういう人だったからだ、としか言いようがない。したがって、『シン・ウルトラマン』も、ウルトラマンが人類を救済する理由を納得のいくかたちで説明できてはいない。どこかにわけもなく人類(日本)に善意――というより好意――をもっている強い救世主がいて、命がけで人類の安全や平和を守ってくれた……という都合のよい話になってしまっている。
【註1】
佐藤健志『ゴジラとヤマトとぼくらの民主主義』文藝春秋、1992年。
【註2】
この点を、朝日新聞の太田啓之記者が的確に指摘している。朝日新聞Digital、2022年6月10日記事。https://digital.asahi.com/articles/ASQ69439HQ66UCVL019.html?iref=comtop_7_07
【註3】
人類自身が大量破壊兵器だから廃棄すると言っているのに、こんな危険な最終兵器は使用可能なのか、とツッコミを入れたくなるところではある。どこかの国が危険な生物化学兵器を所有しているので、核兵器で全滅させよう、と言っているに等しいわけで、ここには矛盾がある。が、今はこの点は忘れて前に進もう。