新海作品には「日本列島」への愛が足りない?
これらを指摘した上で、最後にはっきりと疑問を述べておきたい。『すずめの戸締まり』が示したこの方向で本当に「大丈夫」なのか、と。すでに述べたように、『すずめの戸締まり』を観るかぎり、新海監督が暮らす「日本」には、震災の心理(学)的な痛みとトラウマがあり、地方の貧困や荒廃の悲しみはあっても、まるで性差別的な現実も、排外主義も、原発の問題も存在しないかのようなのだ。これで一体なぜ「未来なんか怖くない」「いつか必ず朝が来る」「それはちゃんと、決まっていることなの」と言えるのか。
これはかつて私が『宮崎駿論』(2014年、NHKブックス)や『橋川文三とその浪曼』(2022年、河出書房新社)などの著作が書いたことに関わるが、私もまた民衆的民俗や宗教混合の先にあるような、日本列島の(丸山眞男の議論に従えば、たんなる「雑居」ではない)雑種化=混血化の過程に何らかの希望を託しているからこそ、多文化主義やポストコロニアリズムの歴史的蓄積をきれいに消し飛ばしているように見える『すずめの戸締まり』には、どうしてもノレない部分があった(その点では、宮崎駿の世界観と新海監督の世界観は、似ているようでほとんど似ていないのではないか)。
これは政治的正しさ(PC)にもっと配慮すべきだ、という話とは違う。社会問題をあれもこれも詰め込むべきだ、というのではない。愛国であれ天皇の使い方であれ、もっとちゃんと向き合ってくれ、本気で愛するならば雑種的で混血的な日本列島と列島民の姿が見えてくるはずだろう、自然災害と社会問題が渾然一体となったアニメーションになっていくはずだろう――そのように言いたかった。誰のことをも人柱=人身御供にしたくないのであれば、もはや祭祀王を必要とせず、「エッセンシャルワーカーとしての天皇」が人知れず苦しまずにすむ社会を真っすぐに展望すべきではないのか、と。
評論家の藤田直哉は、映画公開前に刊行された『新海誠論』(2022年、作品社)で、新海誠のアニメーションが導入する神道/スピリチュアリズムは、天皇制や国家神道とは別物であると論じている。それらはあくまでも縄文文化や蝦夷的なものにも根差すような、迫害された人々の側の神道でありスピリチュアリティなのではないか、と。しかし私には、『すずめの戸締まり』においてそうした上/下、国家/民衆のはっきりとした切り分けができるとは思えない。それらは曖昧に、ズルズルべったりになってしまっている。
私は新海監督が現代アニメーションの中に神道や天皇の力と女性たちのシスターフッドの力を導入しようとしたこと、そのこと自体の意味は決して否定しない。しかし、現時点での新海作品には、(「日本」ではなく)日本列島への愛が足りない。(「日本人」ではなく)日本列島民への愛が根本的に足りていない。
愛するならもっと愛してくれ。日本列島の混血性と雑種性をも深く受け止めてくれ。「国土」から居ないものにされている辺境や周縁の民たち、移民や流浪の民たちもまた、この日本列島に暮らし続けてきた。あるいは今もまだ流入してくる非「日本人」や非「国民」とされる民たちのことをも想ってくれ。その時新海監督は、「国民作家」という評価にさえも「戸締まり」をし、アジア作家、世界作家への扉を新しく開くのかもしれない。
(註1)
新海監督は、自分が映画の中で取り上げた様々な土地がアニメファンたちの「聖地巡礼」の対象になるだろうことを、心のどこかで、敗戦後に昭和天皇が「巡幸」によって日本再統合を目指したことに重ねてはいなかったか。昭和天皇の北海道への戦後巡幸が遅れて1954年になり、さらに沖縄についてはずっと遅れて1987年の国体で訪問予定だったが、結局体調不良で訪問中止になったということと、『すずめの戸締まり』が表象する「日本」の国土には北海道と沖縄が含まれていないことは、無関係とは言えないのだろう。
(註2)
『新海誠本』のインタビューの中で新海監督はこう語っている。「例えば、ある災害で自分にとって大切な誰かが亡くなったような経験があるとして、それを事実として受け入れて、自分の中に定着させるのは時間がかかりますよね。災害に限らずとも、大切な人を喪ったことを乗り越えて、受け入れていくにはある種の段階があるというのは、心理学でも言われていることですよね。僕自身にも、震災に関してはそういうステップがあったのだろうとは思います」