以上のように、東京オリンピック・パラリンピックで噴き出した腐敗は、モスクワ大会のボイコット問題やロサンゼルス大会の商業化というオリンピックの変質の果てに現れたものだ。
オリンピックの終わりの始まり
東京大会では、サマランチが敷いた路線の延長線上で、組織委員会はもとよりIOCも民間からの最大限の資金を集めるよう強く求められていた。それに応えられるのは、ロサンゼルス大会以来、オリンピック・ビジネスを独占してきた電通しかないということになる。組織委員会は全面的に電通に頼り、組織委員会内に電通の出向社員を中心にマーケティング局を設置したり、高橋元電通常務に理事のポストまで与えたりした。そうして日本企業68社から3761億円(組織委員会総収入の6割近く)が集められた。
開催に至る過程では、「国家ファースト」「マネーファースト」の企てが、森喜朗元首相(オリンピック組織委員会会長)の言う「オールジャパン体制」で推し進められ、これを批判したり、反対したりする者は「非国民」との非難を覚悟しなければならなかった。
こうして、かつて「平和な世界の建設」「国際親善」を掲げて始まった近代オリンピックは、今や国家主義と過度な市場経済化、勝利至上主義によって人間性を奪われ、腐食してしまった。その先にあるのは荒涼たるスポーツの世界だ。
もはや、オリンピックの「終わりの始まり」が始まっている。私たちは、もう一度、連帯や共同性といった人間性あふれる民衆が主役のスポーツ世界を目指さなければならない。
転換のヒントは1972年の答申の中に
実は、そのための試みや指針も、すでに歴史の中に存在している。
1972年、文部大臣の諮問機関である保健体育審議会が「体育・スポーツの普及振興に関する基本方策について」という答申を出している。そこでは「選手を中心とする高度なスポーツの振興」から転換し、「すべての国民が、いわゆる生涯体育を実践できるような諸条件を整備するための基本方策を樹立し…これによって体育・スポーツを振興し、人間尊重を基盤とした健全な社会を建設すること」が掲げられていた。
これは、オリンピックを頂点とする勝利至上主義のスポーツ行政に代わって、これまで置き去りにされてきた民衆スポーツの振興に光を当てる画期的な宣言だった。翌年から、この答申に従った施設整備などの予算編成も始まった。
ところが、10年後の82年に就任した中曽根康弘首相は競技スポーツにおける成果を重視する方向性を打ち出し、国家主義と新自由主義を背景にした財政縮小、大幅な民間活力導入策など、勝利至上主義へと舞い戻る方針を打ち出した。「72年答申」は根底から打ち壊されたのである。
しかし、同時期のヨーロッパでは、「すべての個人はスポーツをする権利を持つ」と明記した75年の「ヨーロッパ・スポーツフォアオール」憲章や、「体育・スポーツの実践はすべての人にとって基本的権利である」とする78年のユネスコ「体育・スポーツ国際憲章」などが採択され、92年にはヨーロッパ・スポーツ閣僚会議で「個人は誰しもスポーツに参加することができる」「誰もが安全かつ健康な環境のもとで、スポーツおよび身体レクリエーション活動に参加する機会を保証する」と謳った「新ヨーロッパ・スポーツ憲章」が採択されている。
必要なのは、金メダルの数を競う勝利至上主義ではない。いつでも、誰でも、どこでもスポーツに参加し、その楽しさや喜びを享受し、共有できる環境づくりなのである。オリンピックの破綻が明らかとなった今、もう一度、「72年答申」へと立ち返り、ヨーロッパの思想と実践に学びながら、「民衆のスポーツ」へと大きな方向転換をすべきだろう。