村上春樹の6年ぶりの長編小説『街とその不確かな壁』(新潮社)を読んで、こんなことを感じた。これは極私的な弔いのような小説なのだろう。私たちは、たとえうまくセルフケアできず自己愛を持てない時でも、自分で自分を弔いうる。そしてもう若くなく、病んだり傷んだりした心と体でも、新しい生活へと軟着陸していける。村上春樹はあるいは、国民作家や世界作家という重荷を降ろして、〝かけがえのない、大したことのない私(田中美津)〟として、この小説を書いたのかもしれない。それはささやかであるにせよ、とても大切な仕事ではなかったか。それなら、作中の単角獣の頭蓋骨の中に眠る夢を読むように、私たち読者が『街とその不確かな壁』を読むとは、どういうことか。
⁂
まず基本的な事実を確認しておく。巻末に珍しく付された「あとがき」によれば、『街とその不確かな壁』は、文芸誌「文學界」1980年9月号に掲載された「街と、その不確かな壁」という「中編小説(あるいは少し長めの短編小説)」をもとにして、約40年越しにリライトされた長編小説である。書き改めがはじまったのは2020年の3月の初め、コロナ・ウィルスが日本で本格的に猛威を振るいはじめた頃のことだという。
中編「街と、その不確かな壁」は、過去に一度、村上の代表作の一つ『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』へと「大幅に書き直」されて、1985年に出版されている。それからさらに年月が経過して、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』だけでは、「街と、その不確かな壁」という「未完成な作品に――あるいは作品の未熟性に――しかるべき決着(けり)がつけられたとは思えなくなってきた」。「それとは異なる形の対応」があってもいいのではないか。そう考えるようになったという。ちなみに『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』と今回の『街とその不確かな壁』の関係は、「上書き」ではなく「あくまで併立し、できることなら補完しあう」関係であり、言わばそれ自体が分岐したマルチバース的な位置付けのようである。
近年の多くの村上作品と同じく、『街とその不確かな壁』もまたセルフリメイク的あるいはセルフ二次創作的な作品である。「あとがき」にはこうある。「ホルヘ・ルイス・ボルヘスが言ったように、一人の作家が一生のうちに真摯に語ることができる物語は、基本的に数が限られている。我々はその限られた数のモチーフを、手を変え品を変え、様々な形に書き換えていくだけなのだ――と言ってしまっていいかもしれない」。自らの過去作をリプレイあるいはリサイクルし続けること、その過程を通して現実と虚構の間の「壁」をすり抜けたり、溶解させたり、再構築したりしてしまうこと。それが物語に対する「真摯」さであり、物語の「神髄」もまたそこにある、と村上は考える。「要するに、真実というのはひとつの定まった静止の中にではなく、不断の移行=移動する相の中にある。それが物語というものの神髄ではあるまいか」。
物語の骨格だけを取り出せば、中編「街と、その不確かな壁」は次のような作品である。「僕」は十六歳の時に十六歳の「君」と恋に落ち、一つの絶対的な時間を過ごすが、まもなく「僕」は「君」との永遠の別離を経験する。「僕」は「君」が創作した物語の中の「街」へと「君」に会いに行く。その「街」に入るには、人は「影」(心の象徴とも言える)を切り離さねばならない。「僕」は図書館で「君」と夢読みの仕事に従事するが、結局、「君」をその深い内閉の深淵から現実社会に連れ戻せはしない。「僕」は「君」と離別し、一人で帰還し、その後の人生を回復不能な喪失感と空虚さの中で送る。
これに対し、今回の『街とその不確かな壁』は三部構成の長編小説であり、第一部では40年前の中編「街と、その不確かな壁」の内容が語り直され、リライトされる。第二部は、第一部の最後に「街」から現実へと帰還した「影」の視点からの物語になる。四十五歳になった「影=私」は、書籍の配本流通管理の仕事を辞めて、東京から福島県のZ**町(南会津と思われる)に移住し、町営図書館の館長の仕事に就く。
未婚の孤独な中年男性が、鬱気味の「初期中年クライシス」を迎え、転職し、地方移住して、心機一転、新たな生活をはじめる――ストーリーラインだけ抽出すれば、『街とその不確かな壁』はそうした小説である。「私」は、少しだけ不思議な住人たちとの間に、程よい距離感の人間関係を構築して、新生活へと緩やかに軟着陸していく。孤独な中年男性が都会を離れ、地方移住を通して、人生の後半生へ向けて言わば下山(=土着、下野)を試みた、ということだろう。それによって「きみ/君」を個人的に弔い、自らのことをも弔った。『街とその不確かな壁』は、物語の虚構性に託して、中年男性のメンズリブ的で実存的な主題を扱った小説であると言える。
たとえば、中年男性である「私」と高齢男性である子易(こやす)さん(図書館を私設した先の館長)による、「百パーセント」の「混じりけのない純粋な愛」をめぐる恋愛談義などは、素朴に読めば――作者村上はすでに七十歳を過ぎている――グロテスクな側面もあると言わざるを得ない。しかし子易さんは言う。「そこにあっては年齢の老若とか、時の試練とか、性的な体験の有無とか、そんなことはたいした要件ではなくなってしまいます。それが自分にとって百パーセントであるかどうか、それだけが大事なことになります」。村上春樹的な「男」たちにとって、若い時期の純粋な愛の喪失は、ほとんど人生全体の喪失と等価であり、その絶対的な別離によって一度「人格」が完成してしまうと、それ以降は成熟も成長も回復も不可能になり、ただ空虚な世俗生活に耐えるほかない。
『街とその不確かな壁』を通して私は、1985年のSF調の物語『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』と1987年の恋愛小説『ノルウェイの森』はこうやって地下水路が通じ合っていたのか、と今さらのように軽い驚きを感じた。分離したこれらの二つの長編小説(いずれもその中に複雑な分裂を内包しているのだが)をもう一度統合するために、『街とその不確かな壁』における「街」は、男性主人公の脳内ではなく、「君」――以下では、『ノルウェイの森』に準拠して「直子的な女の子」と仮に呼ぼう――の心の中に差し戻されたのだろう。